節約で世界を変える

ブログ名の通りです。僕は、この社会はこの日本の社会はおかしいな、と思っています。お金なんて本来いらない。少なくとも、みんなが期待しているほどお金などいらない。お金などほとんどなくても楽しく生きていける。その可能性はある。少ないお金で暮らしていけるのなら、毎日毎日、長い時間かけてお金のために働く必要もないだろう。お金にこだわらず、少ないお金で楽しく生きていく方法を仮に、「節約」と呼ぼう。(僕の本心では、節約って言葉より、「質実」とか「こだわりの少ない」とかで表現したのだが、それだとわかりにくだろうから。)そ

学校での勉強法(参考資料)

今回は、学校(主に中学、高校を想定)での勉強の仕方について僕なりに考えを述べてみる。ただ、以前も書いたと思うけれど、僕自身、小学校、中学、高校にほとんど通わなかった(合計すると三年と九日間くらいか。日数にしたら609日前後だろう)。そして、それで良かったと思っている。なので、ここで書いていく勉強法(ってほど堅苦しいものじゃないんだけれど)は、学校に毎日通学することを前提としていない。また、ここに述べる勉強法は、僕自身が10代だったころを思い返して考えたもので、学生時代(って学校に通っていなかったんだけれど)の僕が実践していたことではない。

また、以下の記述は、学校での成績を上げるための勉強法であると同時に、いかに学校教育、教師、先輩後輩に振り回されずに生きていくための実戦的な戦略のつもりでもあります。

 

1)学校には、週二、三日通うだけでいい。

毎日通うから体力も消耗するし、ストレス過多になるのである。よほど学校が好きで好きでたまらない、というのでなければ、学校は、「好きな教師の授業を受けるため」か「学習資料(教科書など)をもらいにいくため」か「理科の実験など特別な器具を必要とす」この三つの場合だけでいい。

週二、三日だけ学校に通うメリットはたくさんある。1)学校以外の活動が増える。2)飛び飛びで授業を受けることが知的刺激になる。3)人とは違うことを堂々と行う練習になる。4)学校に行かないことで逆に教師たちに名前を覚えてもらえる。といったところだろうか。

1)はつまり、好きなことを好きなだけ没頭できる、ということである。学校の勉強だけが学習じゃない。2)は、飛び飛びで授業を受けることで時に授業内容についていけなかったり、「?」となることがあるのだが、これが却って考えるきっかけになり、思考力を伸ばす、ということ。わかることをやるより、わからないことをやる方がいいのだ。3)は大事。4)が実は場合による。教師たちの質による。いい教師は、名前をおぼえてくれるし、どうでもいい教師は名前を覚えてくれない。が、逆に、いい教師かどうでもいい教師かを見分ける手立てになる。

なので、好きな教師の授業もたまに休むといいと思う。

 

2)塾にはいかない。

というのも塾講師の仕事は、ただ学生の成績をあげることだけだから。つまり、塾講師は、学生の個性や感性にほとんど頓着せず、ただ勉強を教えるだけだから。また、塾は基本的に学校終了後夜間に通うことになる。すると、結果、睡眠時間が減らされることになり、健康や成長を損なうことになりかねない。

ただし、家庭教師はおすすめ。理由は、1)生徒と一対一でむきあってくれるから(人によるけど)2)好きなことを好きなだけ質問できるから。3)時間帯を相談できるから。この曜日は、学校を休んで、家庭教師に教わる、みたいなやり方でもいいと思う。ただ、相性や人柄が大事だと思う。

 

3)体育会系の部活動には参加しない。

理由は、早朝および夜遅くまでの練習が課せられるから。逆に言えば、それがないなら、入ってもいいと思う。なぜ、早朝や夜遅くまでの練習を避けたい かといえば、塾と同様、睡眠時間を削る羽目になりかねないから。

また、部活動だけが運動ではない。地元の空手道場に通ってもいい。

 

4)教科書との付き合い方

(あくまで、今の僕ならこうするだろう、という方法。参考程度に)

まず、教科書をもらったら初日のうちにざっと目を通す。予習にもなるし、学習内容の大枠をしることができる。また、これをすることで、学校に毎日通わないことの根拠が増える。「一年間分の予習が済んでいるんだから、毎日通う必要はない」と。ただ、ざっと目を通すだけでいいと思う。一字一句理解しようと思ったら疲れるだろうから。また、学校とは基礎教養を身につける場なのだ。ある一定の水準さえクリアしていればいい。完璧に理解しようと意気込む必要はないだろう。

以下、科目ごとの具体的な読み方の例。

・理科、社会科系。

まず、初回のざっと読みは、1)目次を二、三回音読する。2)各章のまとめのみを音読。3)最初から最後までぱらぱらと目を通す。これで、教科書全体の概略はつかめると思う。要は、教科書の概略さえつかめればいい、という読み方をする。多分、この方法なら一冊一時間もあれば完了すると思う。一時間は長い、と感じるかもしれないが、これをしておけば、学校には週二、三日通うだけで一定の学力が身につくのだ。なんだかんだ言って、時間は浮く。

その後の学習としては、定期的(週に一度程度)に一章ずつ音読していくといいと思う。一章の音読にはおそらく三十分もかからないだろう。学校にほとんど通わない分、音読の時間は容易に取れる。また、各章を音読する前に、目次を音読しておくと、各章が全体の中でどのように位置付けられているのかが、わかる。

また、裏技的だが、もし、教科書の内容にほとんど興味が持てないようなら、最後の章から最初の章へ遡るように読んでいったらいいと思う。教科書を含め本は普通ページ数順に読むように設計されている。なので、あえて最後の章から読むと「前章で述べたように」とか「第一章参照」のように、最初の方の内容への言及が度々見られる。で、後ろから前へ読んでいくと「前章で述べたって何を述べたんだ?」とか「第一章参照って何を参照しているんだ?」と興味が湧いてくるのである。まあ、少なくとも、僕の場合。難解な書物の場合この後ろから読みは危険だが、教科書程度の内容なら、問題ないだろう。

また、あえて付言しておきたいのだが、たとえば世界史について書かれた書物は、なにも学校教科書だけではない。日本史や化学物理などもそう。なので、教科書はささっと読み通しておくことをお勧めする一方、教科書に飽きたら、その科目に関連してそうな適当な書物を探して、同じように読んでいってもいいんじゃないかな、と思う。そうした時間を設けるためにも、学校は通わなくていいだろう。

・英語

英語の教科書は基本的読まなくていいと思う。というのも、英語に関して言えば、座学的な知識などいらないからだ。要は、英語を聞いて理解でき、話せ、読め、書ければいいのである。まず、聞き取れるようになり、次に、話せるようになり、次に読めるようになり、その次に書けるようになればいい。

なので、教科書を読むくらいなら、You Tubeで英語の対談動画を眺めている方がいい。不思議なもので、動画だと、たとえ言葉が聞き取れなくても、だいたいこんな意味のこと言っているのかなあ、ってわかってくる。毎日毎日ひたすらYouTubeの英語動画を眺めまくる(ただし、目が疲れたり、視力低下には気をつけて)それで英語学習の初歩は十分なんじゃないかな、と思う。

ただ、英語の教科書を一切読まないと、教師や同級生たちの会話に付き合えなくなるかもしれない。なので、1)目次を二、三度音読する。2)全てのページにざっと目を通す。3)付属、あるいは別売りの例文音声を数度聞く。4)教科書に書かれた会話文を数度音読しておく。くらいでいいと思う。英語の教科書は、文章量はすくないので、簡単に読み通せると思う。

また、英語学習に関して、アイフォーンやパソコンなどの言語設定をEnglishにすると、自然と英語が目に入り、英語慣れする。

・国語

実は、国語の教科書も基本的に読まなくていい、と思っている。理由は1)教科書に載っている文章=日本語で書かれた裁量の文章ではないから。2)教科書に載っている文章以外にも、日本語の優れた文章はたくさんあるから。3)教科書にでている文章がそのまま入試で使われることはないから。1)2)の理由が本音で、3)はついでである。(僕のやり方だと、推薦入学は厳しいので、それなりにいい点とれるようにならないと、行きたい大学に入学できないから)

文学に関して言えば、気になる小説をひたすら音読していけばいいだろう、と思っている。また、評論など論理的な文章なども同様である。気になる領域、気になる著者の本をひたすら音読すればいい。

ただ、国語の教科書に収録されている文章自体、なかなか名文揃いなので、1)ざっと目を通す。2)週に一文ずつ音読して行く。といった学習を行うといいかもなあ、と思います。

・数学

数学もあまり読まなくていい。1)目次を数度音読する。2)ざっと目を通す。3)章はじめになる例題などを解説に頼らず自力で解法を考えてみる。4)例題が解けたら、次の章へ行く。

これで十分なんじゃないかな、と思う。考え方の要点さえつかめたら、もうそれだけで、思考能力は向上しているのである。類題を大量に解かなくてもいいのではないか。全国珠算選手権をめざしているわけでもないなら、計算速度はそんなに速くなくていいし、同じことを繰り返し練習していると却って思考が硬直化するだろうから。

 

5)市販の学習参考書、問題集は基本的に使わない。

理由は1)受験向けの学習参考書は二流の著者によって書かれていることが多いから。2)問題集の演習は、単に、問題解決速度を速める練習に過ぎないから。

1)は、盲点になりなやすいが、説明を聞けば納得してもらえると思う。以下のように、考えてみるのである。一流の歴史家(たとえば宮崎市定さん)が、わざわざ受験向けの学習参考書を書くだろうか?もしかしたら、書くかもしれないが、例外的な場合だろう。

というわけで、もし、参考図書を必要するなら、受験向けの学習参考書は無視して、より広い読者に向けられた書物を選ぶのよい、と思う。直接的な受験テクニックは学べなくても、幅広く、深い知識が手に入ると思う。受験テクニックなど、受験の半年前くらいに詰め込めばいいのである。

2)問題集を買いまくり、問題集を解きまくると、ただ受験のためだけの学習になってしまう。けど、それは寂しいなあ、と思うのである。所詮問題集は、新しい発想をおしえてくれるものではない。問題集の目的は、1)すでに身につけた知識が習得しているか確認する。2)より素早く問題を解く練習になる。3)出題傾向を知る。この三つくらいだと思う。だとすると、問題集を解くのも、受験の半年から一年前でいい。

僕は、受験自体不要な制度だと思っているが、もし、受験が避けられないとしても、受験のための勉強と日常の学習とは分けて考えた方がいいと思う。学校の勉強は、少なくとも建前の上では、受験のための勉強ではなく、子供達に幅広い教養を身につけてもらうための学習である。だとすれば、受験のための勉強は、本の例外的な期間に限定すべきだろう。具体的には、高校三年生の一年間くらいでいい。

僕の学習方法だと、学校には基本的に通わなくていいのだ。となると、わざわざ中学受験、高校受験を経なくてもいい。あるいは、特に受験勉強しなくても、受かる中学、高校でいい。

市販の学習参考書や問題集を購入しなくていい、となると、その分お金が浮く。教科書はほぼ無償出手に入り、その他(受験に対応しない)参考図書は図書館で借りればいい。受験関連の参考書を図書館で借りると、多数の書き込みがあり読みにくいが、非受験参考書ならその心配もないからだ。

で、浮いた金で、月に一度ほど、家庭教師に来てもらったり、空手道場に通ったりする。

 

6)学校での学びにこだわらなくてもいい。

学校の科目の中にはわざわざ学校へ行かなくても学べることはたくさんある。

具体的には、料理、裁縫など家庭科で習うこと。絵を描いたり楽器を演奏したりすること。工作も自宅でできるし、パソコンがあれば、自宅でコンピュータについて学べる。運動なら、その辺をかけまればいい。

つまり、家庭科、音楽、美術、情報、体育といった科目は、わざわざ学校へ行ってまで習う必要はない。というか、毎日料理を作って、家事手伝いをしていたら、家庭科の授業は不要だろう。絵なんて、好き勝手にかけばいいのだし、音楽だって、指パッチンだって楽器である。音楽や絵がうまいやつには、学校の授業とは関係なしに、ひたすら楽器やっていたり、絵を描いていた連中が多い。

 

7)宿題は一切しなくていい。

なぜならば、宿題の多くは、受験対策だからだ。いかに問題を素早く解けるかの練習である。くだらない。

 

8)試験は受けなくていい。

試験も宿題と同様である。どう行った問題が出るのかをチェックする程度でいい。そもそも、試験の無駄なところは、試験時間終了まで時間的に拘束することである。つまらない試験だったら途中退場してもいい。

ただ、クソ教師の中には、テストの点が低いとバカにしてくるクソもいるので、奴らを黙らせるために、たまに学年トップを取るのもいい。

 

9)体力を学校教育で浪費しない。

学校に通っているのに、勉強ができないのは、おそらく、学校教育に体力をうばわれているから、だと思う。普段十分休んでいたら、一、二ヶ月ガガっとやれば、ググっと身につくだろう。もちろん、ある一定の日常学習は必要だけれど、それにしたって、毎日五、六時間も勉強する必要はない。週に一日集中して教科書を音読する日と、週に二日、遊び感覚で学校に通う日、月に一日家庭教師に話を聞く日、そのほかの日は、一日一時間くらいYouTubeで英語の動画を見て、もう一時間興味のある本を読んで、それ以外は、自由時間、でいいんじゃないかなあ、と思う。

 

10)学校教育のほか、体力を浪費することを避ける。

テレビ、とか、塾、とか。世間体とか。見栄とか。全国模試、とか。

テレビを見る際、一度考えて欲しい、アナウンサーって本当に頭いいのかな?って。頭のいい人もいると思うのだけれど、テレビで喋っている感じはただのお嬢さん。

 

11)いろんな人に会いに行く。

武術道場に通ってみる。絵画教室にかよってみる。美術館にいく。博物館に行く。美術館の講演会に行く。お寺に遊びに行く。近所の山や川を探検する。フリースクールに遊びに行く。カルチャーセンターに遊びに行く。大学に潜入する。親戚の家に泊まり歩く。釣りをする。旅行に出かける。山登りをする。海に行く。映画を見に行く。試写会に行く。平和公園に行く。被爆地に行く。自衛隊基地を遠くから眺める(立入禁止区域には立ち入らない。危険だから)。

 

12)注意点

学校にあまり通わないでいると、以下の能力が落ちるケースがある。1)視力。2)筆記能力。3)体力。

1)視力に関しては、インドアになり過ぎたり、パソコンをずっといじっていたりすると落ちやすい。また、視力が落ちていることに自分で気がつかない場合もある(黒板がみえにくいなあ、とった気づきが得られにくいため)。ただし、対策は十分に立てられる。定期的に、自宅で視力検査を行う、とか、根を詰めた作業を続けると視力低下につながることを理解しておく、など。2)学校にあまり通わなくなると、文字を書く機会が減る。結果、文字が汚くなる。僕みたいに。けど、これだって、対策は可能だ。練習すればいいだけ。それに、汚くても読める字をかければ、問題はない。3)体力には、色々な種類がある。たとえば、重たいものを持ち上げる体力。サウナに一時間くらい入っていられる体力。自分にとって必要な体力さえあれば十分だろう。一時間散歩をして息が全く切れないなら、日常生活において特別問題はない。

 

13)まとめ

書きながらわかったのだが、僕の考える勉強法の柱は、二つ、1)学習内容の全体像をささっと把握する。2)くだらないことに体力を消耗させない。である。が、この二つは、相補関係にある、と思う。たとえば、教科書をババっと読んでしまいさっさと基礎教養を身につける、それによって学校や塾や宿題の必要性が減り、学校や塾に通わない分体力を温存できる。で、余った体力で、さらに全体像を把握する。学習を深める。自分で学習できるのだから、学校や塾や宿題はさらに不要になる。するとさらに体力は余る。そして、、、という円環。

 

14)まとめ2

べつのまとめかたもあるなあ、と思った。要は、自分でできることは自分でやるに限る、である。学校行かなくても学べるんだったら、学校に行かなくてもいいよね、という話。

日記 覚書

日記。

ゴキブリについて考えている。つい先日、なぜ、ゴキブリは、一匹ずつ姿を現わすのか?という疑問が湧いた。で、その疑問に対して、自分なりの仮説を立てた。その仮説とは、以下のような仮説である。ゴキブリには、出稼ぎゴキブリと、家庭を守るゴキブリと子供ゴキブリに分かれる。で、出稼ぎゴキブリは、危険を顧みず、部屋を縦横に動き回り、エサらしきものを見かけると、大量に食べる。で、その後巣へ戻り、巣にて排便をする。で、家庭を守るゴキブリと子供ゴキブリたちは、その出稼ぎゴキブリの糞をせっせと食べる。家庭を守るゴキブリは産卵や子供を守る。そういう役割分担があるから、ゴキブリは、一匹ずつしか現れないのだろうか、などと思った。特にゴキブリの生態について調べたわけではない。

内山節さんの「新・幸福論 「近現代」の次に来るもの」を半分くらいよんでいる。そのなかで、現代の僕たちは、個人としてではなく、じゅっぱひとからげの人々として捉えられている、という話があった。例えば、高齢者について語る際、佐藤さんちのおじいさんではなく、我が国には〇〇万人の高齢者がいる、というふうに、一つの集合というか、「人々」として個性を没却して捉えられている。結果、政治や経済などが、自分という個人と無関係に働いているように感じられ、結果、政治や経済といった本来自分たちの生活に密接に関係しているはずの物事が自分たちから遠くへ逃げていっているように感じられる、そういう話が書かれていた。で、ここでいう僕たちがそれぞれに異なる関係性を持つ個人としてではなく、没個性的な「人々」として捉えられている場面は、この社会に充満しているなあ、という感想を抱いた。具体的に思い描いたのは、センター試験であった。センター試験でどれだけいい点を取ろうが、悪い点を取ろうが、自分と同じ点数の人間はたくさん存在するわけである。例えば、600点台の人々、700点台の人々800点台の人々、と括られてしまうのだ。そこでは、個人の資質など一切顧みられていない。少し、腹立たしくなった。テストなんていらないなあ、とか、テストを含め、学校のあり方を変える必要があるようだ、などと感じた。そもそもどうして、600点の人と601点の人が違う人間なのか。逆に、600点の人と600点の人とがどうして同じ人間なのか。この世界の評価基準は間違っているし、そもそも、評価、って発想が間違っているんだろう。

この頃、考えていることは、個人として行える社会運動について。僕は、さまざまな社会運動を行なっているつもりだ。例えば、蚊取り線香を覗く、殺虫剤を一切使わない、というのも、単に、僕個人の趣味ではなく、社会的に意味あることだと思って行なっている。毒物をそんな手軽散布していいのかよ、という疑問があるのだ。こうしてブログでよくわからないことをのたまっているのも、社会運動の一環だったし、近所の図書館に寄付するために、わざわざ新品の本を購入するのも社会運動のつもり(他の利用者が紛失したのか、いつの間にかなくなっていた本を寄付する予定)。こうした個人的に手軽に行える社会運動をどんどんどんどんふやしていかないとなあ、と思っている。

この社会を段階的に変えていこう、というきもちが昨日あたりから強くなっている。それ以前は、こんなダメ社会、一気呵成に塗り替えなくちゃダメだ。でも、そんなの無理だ。と頭を抱えていたのであるが、まあ、そんな焦らなくても、着実に変えていけばいいだろう、と思い改めている。どういう心境の変化だろう?我ながらよくわからない。

そういえば、昨夜は、ゴキブリは現れなかった。気がつかなかっただけかもしれないのだが、羽音やカサコソという歩行音は聞こえなかったのだ。一通り、捕獲して屋外に逃がせたのだろう。五匹くらい捕まえて逃がしただけなのだが。ゴキブリ一匹=三十匹説は、きっと嘘であろう。

立身出世を目的に働く奴はくそである。ただ、言っておきたくなっただけ。

今朝方、朝食後すぐに、散歩に行こうとしたのだが、やはり食後すぐに体を動かすのは良くないようだ。すぐにお腹が痛くなる。排便したら治ったので、よかった。

日記を書こうと思ったのだが、どうにも、うまく昨日のエピソードが浮かばない。いや、浮かぶのだが、あれもこれも、ちょっと個人的な内容だよなあ、とためらってしまう。一言で言えば、昨日は楽しかったのである。肉体的にも成長している。ただ、暑い。エアコンは必需品である。夜間に寝苦しさを感じたのは、今年初めだった。みんなどうやってこの暑さをしのいでいるんだろう。

シェアハウスと通い婚 および家族観の拡張または、家族よりも部族へ

僕には、この世界は狂っているように感じられる。で、これまでの記事は、主に、その狂いっぷりを批判してきたのであるが、とはいえ、狂っている、狂っている、と名指しで呼ばわっても、必ずしも、改善はしないだろう。というのも、誰か特定の個人によって狂わされたわけではないからである。責任所在が不明瞭なのに、「責任者を出せ」と怒鳴り込んでも、豆腐にかすがいだ。というわけで、僕はそろそろ、この狂った世界で、どういう風に生きたら、気楽で、楽しく、嬉しく生きれるかを模索していきたい。問題の焦点は、食と住と友である。衣に関しては、それほど重要ではないだろう、と思っている。古着屋へ行けば、結構手軽に、丈夫な衣類が手に入るのである。ただ、伝統服の復活は、追い追い取り組んで生きたい課題なんだけれど。食と住とが、気楽に手に入れば、僕たちの生活は、きっと、もっと気楽に行えるだろう。また、友達がいれば、寂しくはない。

で、この食、住、友を、それなりに改善する方法は、おそらく、シェアハウスではなかろうか、と思う(思う、と書いているのは、僕自身、シェアハウスを未体験だからだ。つまり、この記事は、シェアハウス実行計画書である。これから、シェアハウスの実現に向けてあれこれ模索するわけだが、その試行錯誤のための計画書。)。ただし、いわゆるサービス業賃貸業として提供されているシェアハウスでは、ダメだ。主体的じゃない。そもそも共同で家を借りるだけなのだ。友人知人と相談して、勝手に家を借り、勝手に家を共有すればいい。

で、その上で、通い婚制度を復古する。シェアハウスには、諸々問題点があるんだけれど、実は、通い婚を容認することで、だいたい解決できるだろうから。シェアハウスの問題点は、いくつかあるけれど、その一つは、一緒に住んでいた人が、結婚、転勤、その他の理由で引っ越すことになった際、どうするか、という点だ。転勤に関しては、そもそも、引越しを必要とするほど長距離の転勤のない仕事を選べば済む話。その他の理由に関しては、シェアハウス結成時にしっかり話し合えばいい。ただ、結婚に関しては、なかなか避けることができない。なら、共同住居者の結婚を経ても、シェアハウスが壊れないよう、工夫を凝らせばいい。で、それが通い婚。

まず、シェアハウスで食・住・友がどのように改善するかを、まとめておく。

食)まず、食について。1)一人暮らし時より食料を大量に備蓄可能になる。2)役割分担で調理が楽になる。3)耕地面積を増やせる。4)お互いにアイデアを出し合い、さらなる工夫が生まれる。と行ったところだろうか。1)は、一人暮らし時より、収納スペースが拡大するだろうから、可能になる。また、まとめ買いする結果、食材費がやすくなったり、あるいは、宅配サービスの活用も容易になり、食材調達の手間も省けるだろう。2)は、お互いの食の好みや食に対する考え方をすり合わせる必要はあるだろうけど、実質、二人暮らしなら、一人暮らしの半分の手間で食事を用意できるのである。正直、僕は肉類を食べたくない人なので、菜食主義者じゃない友人とどのように料理分担をすればお互いに楽しいのか、まだイメージできていない。まあ、お互いの食文化が離れすぎている場合、無理して当番制にするより、お互いに勝手に調理を行えばいいだろう。3)僕は現在、二人か三人で、庭付き一戸建てを借りることを想定している。庭があれば、よりたくさんの植物を育てられる。トマトやハーブなど、特別畑を用意しなくても、育てられる食用植物はたくさんある。食材をある程度自給できれば、食費の軽減につながる。また、特別に庭がなくても、生活空間をうまく活用すれば、十鉢くらい置けるだろう。4)生活について考えるのは楽しい。工夫をすれば工夫しただけ自分の生活が豊かになるからだ。で、おそらく、一人で考えるより複数人で考えを出し合ったほうがより楽しいだろう。また、一人一人の人間、それぞれの縁起というか、縁がある。たとえば、僕の場合、古着を格安で手に入れられる縁、ベーコンや生牡蠣を割と安めに大量に購入できる縁、などがあった。そうした縁によって生活が豊かになる場合だってある。また、知識量は、単純に、二倍三倍と増えていくだろう。また、住、のところで述べようと思うけれど、アイテムの共有も、新しいアイデアを生むだろう。

住)について。1)借りられる建物の幅が広がる。2)生活空間が広がる。3)家電類など、アイテムを共有できる。4)家事など役割分担が可能。5)お互いの良いところを真似できる。6)一人暮らしより安心。ひとまず、このくらいだろうか。1)家賃の予算にもよるが、一般にひとり暮らしで、一戸建てを借りるのは、ややハードルがあるだろう。でも、二人三人と出資者が増えれば、普通にアパートを借りるの大差なくなる。また、人手が複数人に増えるわけで、不動産屋での交渉なども容易になる。まあ、不動産屋を介さないほうが安く借りられると思うのだが。2)これはあくまで僕の願望だが、一人一部屋にしつつも、互いの部屋を自由に行き来できればいいな、と思っている。例えば、Aさんは、本好きなので、たくさんの本を自室に用意している。すると、他のBさんCさんは、本を読みたい時、Aさんの部屋へいく。また、Bさんはオーディオマニアなので、以下略。Cさんは反対に、無趣味なので、部屋がガランとしている。なので広々とした部屋でのんびりしたい時、AさんとBさんはCさんの部屋を訪れる。そんなふうに、基本的、各自、好きなように自室を使うのだが、時に、お互いに門戸を開く。そんなふうにして、生活空間を格段に広げられたらなあ、と思っている。また、共用スペースも拡大できるかもしれない。まあ、家賃の関係もあるので、そんなに広々とした家は難しいかもしれないけど。3)今の時代、アイテムの共有が乏しい。せいぜい職場の備品を共有するくらいで、生活に必要なアイテムの共有化に成功している例は、稀だろう。そんな時代だから、貧乏になっていくのだろう、と思う。やかんにしろ、なべにしろ、冷蔵庫にしろ、たった一人で使うのは、もったいないなあ、と感じている。アイテムを共有できれば、支出や、必要な道具類の数も減る。また、お互いにレアアイテムを持っている可能性もある。たとえば、僕は、発酵器やジューサーを持っている。いつもいつも使うわけじゃない道具は、人に貸せたらなあ、と思ってしまう。4)掃除、洗濯、料理、また、以外に役立つのは、宅配の受け取り。急な用事で外出際、一緒に住んでいる友達に、宅配受け取っておいて、とハンコを渡せるのは、助かるだろう。また、一人では持ち運べないタンスなども、二人でなら運べるだろう。5)一人ならがんこにきめつけてしまうことでも、二人でなら柔軟に判断できるかもしれない。お互いに、尊重しあえているという前提があれば、さまざまな場面で学びがうまれるんだろう、と思う。また、自分の知らない分野の知識なども、知らず識らずに摂取してしまうだろう。6)世の中に絶対はないけれど、一人暮らしより複数人での生活の方が、人災天災ともに、対応しやすいだろう。

友)について。なぜ、友を必要とするのか、といえば、1)人は孤独を感じると辛くなる。2)一人では、知識、考えが狭くなりがち。3)落ち込んだ際、誰かと一緒にいれば、気持ちが立ち直ることもある。4)自分の感情、考えを友人などに率直に述べることで、楽になったり、新しい発見が生じる。5)友が自分の盲点を指摘してくれる場合がある。6)趣味が広がる。といったところあろうか。正直、細かいことをあげていけば、まだまだ無限に続きそうである。総じていえば、友がいることで、視野が広がり、また、気持ちも楽になる、といったところか。

シェアハウスと通い婚制度の相性の良さについて。実は、僕は子供の頃から、気の合う友達と一緒に暮らすことが夢だった。小学校の友人になったTくんとは、よく、大人になったら一緒に暮らそうと話していた。おぼろげな記憶だが、Tくんも乗り気であった。が、大人になるにつれ、でも、どちらかが結婚したらどうする?ずっと男友達同士で暮らすって、一生乾坤しないことなのか?などと無駄に問題点を列挙するようになった。が、よくよく考えてみれば、結婚、即、夫婦で同居、という発想に囚われていただけである。通い婚で済ませばいいのである。が、その際、子育てはどうする?妻は一人で寂しくないのか?といった問題点がでてくる。しかし、これら問題点も実は問題ではない。解決可能だからだ。まず、妻について。妻も妻で勝手に女友達たちと同居すればいいのである。そうすれば、ひとり暮らしじゃなくなるので、寂しくなくなる。また、子育てに関していえば、妻が妻で複数人の女友達と同居している前提なら、まず、おっぱいを必要とするお赤ん坊の頃は、妻のシェアハウスで子育てすればいいのである。夫は、金銭的な支援や、手伝いへ行けばいい。半年くらい泊まり込んでもいいし、人工ミルクの活用をオッケーとするなら、短期間、夫側のシェアハウスで引き取ってもいい。もちろん、どんな風にくふうしても、子供が赤ん坊の時期は、夫より妻の方が負担が大きくなるのは事実である。ただ、普通の夫婦でもそれは同様だ。少なくとも、夫は授乳ができないのだから。ただ、シェアハウスなら、同居者の支援が得られる。子供の側も、複数のお父さんお母さんがいることになる。これは幸せである。また、子供がある程度大きくなったら、子供の意思を尊重しながら、夫側のシェアハウスにも、子供が泊まり込めばいい。最終的に、どちらのシェアハウスを生活の中心にするかは、子供が決めるのである。また、一旦決めたことを反故にしたっていい。通い婚により、子供は、住居について、(おおきくわければ二)つの選択肢を持つことになるのである。これは、素敵なことだと思う。また、同居人同士協力すれば、子供を無理に保育園、幼稚園へ通わせる必要はないだろう。同居人同士、仕事日をずらし合うのだ。日曜日はAさんが家にいるから、Aさんが子供の面倒を見れる。月火はBさん、水木はCさん。で、どうしても人がいない時だけ、幼稚園などを頼ればいい。幼稚園や保育園不足なのは、僕たちの生活のあり方が、幼稚園保育園を前提に形成されてしまっているからだ。本来、幼児期は、家族と一緒にいたいものだ。無理に幼稚園に通う必要ってないんじゃないかな、と思う。また、僕たちだって、だんだん歳をとるわけだけれども、ひとり暮らし、や夫婦ぐらしより、複数のシェアハウスが、通い婚制度で繋がりあった状況の方が、老後の生活がより安楽になるように思われる。シェアハウスが、そのまま高齢者グループホームになるのである。まあ、グループホームって呼び方も、高齢者って呼ばれ方も好きじゃないんだけれど、既存の制度に照らし合わせれば、そう呼べるだろう。シェアハウスと通い婚制度のコンビネーション、もしかして、最強なのではないだろうか。

また、書きながらふっと思ったノアが、シェアハウスかすると、さまざまな起業が容易になるだろう、と思われる。先ほど、シェアハウス間で子育てというアイデアを書いたが、別に、自分たちの子供だけに限定することはない。自分たちの子供たちある程度育てて経験を積んだ後は、周囲の子供たちの保育所としてシェアハウス内の空間を活用する、という手もある。また、日中、他の同居者が外出している時間帯に、フリースクールを開いてみたり、ちょっとした販売店を開いてみたり、画廊にしてみたり、といったことも可能である。

また、話が前後するが、子供が生まれた際、部屋数が足りなくなるのでは、という問題点もおそらく解決可能である。というのも、部屋が足りなくなれば、増築すればいいだけだから。そんな簡単に増築できるだろうか?おそらくできる。庭に小屋を一個建てればいいだけだからである。庭が狭いなら、近所の空き地を借りてもいい。坂口恭平さんのモバイルハウスのアイデアである。普段は、その小屋で生活をしているが、例えば、食事の時、あるいは、夏場暑くてエアコンが必要な時、などは、シェアハウスへ戻って来ればいい。イメージとしては、小型の一軒家の周りに、小衛星のように、モバイルハウスが並んでいる感じ。空き地が十分に存在するか、が問題点だが、まあ、大丈夫じゃなかろうか。それこそ、いざとなれば、もう一軒家を借りたり、あるいは、より大きな家にみんなで引っ越せばいいだけである。そうした引越し屋借りる家が増える可能性を事前に話し合っておいて、互いに了解しておけば、良いだろう。

また、書き忘れていたのだが、このようにシェアハウス化することで、たとえば、不意のリストラや、あるいは、転職などへの不安も減る。

以上は、あくまで、僕自身の思考の整理を兼ねた、計画の書。以後、少しずつ、友達と話を詰めていこう。たとえ、実現しなくても、「こういう可能性考えたんだけど、どう思う?」って話を振るのは面白いだろう。向こうも、思いもかけない提案に、驚くだろうが、一つの可能性として、楽しんでくれるだろう。

僕は、自分たち自身で共同体を作りたいなあ、と思っている。というのも、現状の自分があまりに寂しいからだ。そのための手づる(って言い方はどうかと思うが)として、すでにある繋がりを活用していきたい。すでにある繋がりを太く力強くしかもしなやかに、育んでいくことで、今は失われた共同体社会をとりもどせはしないものか、と思っている。あるいは、別の言い方をすれば、家族を作りたい。いや、部族っていった方がいいか。従来の家族観とは、男と女が結婚して、子供ができて、あるいは養子をもらって、さらに、犬猫を購入して、犬猫に洋服を着せて、犬可愛がりして、みたいな、くそのようなゴミのような、クソゴミのような代物である。僕は、あえて、口汚く罵りたい。犬猫に洋服を着せ、トリミングして、それで、犬猫のことを大事な家族と吐かせるなら、もっと、人間側に家族の門戸を広げてもいいだろうって。誰でも彼でも、家族になれるわけじゃない。確かに、相性とか、それこそ、利害の追求から一歩も二歩も離れなくちゃならない。でも、大量の小型犬を従えた中年おばさんを眺めるたびに、「ああああ」ってそこしれぬもどかしさを感じてしまう。僕も、犬は好きだし、猫も好きだ。でも、なあ。何か、ずれている。

日記

今日は、日記を書いて、後はのんびり過ごそうかな、と思う。いや、もうすでに、のんびりした気持ちである。朝起きた瞬間、ああ、今日は、のんびり過ごす日だ、ってわかる時がたまにある。週に一二度くらい、そういうリズムで生きてきたのだろう。

今八時を過ぎたところなのだが、ジリジリと暖かくなってきた。昨日、夏の暑さにへばっていたので、夏バテ対策に、と、今朝は、普段の二倍くらいの量の食事をとる。何事も実験であろう。結果、体力が保つのか、どうか、今晩あたりにわかるだろう。それにしても、朝八時にして、じわじわと汗をかいてしまう、というのも不思議だ。夜は、涼しく、寝やすいのは、ありがたい。

そういえば、夜間、多分十二時くらいだろうか、就寝してしばらくしてから、部屋の中をゴキブリらしき存在がぶんぶんと飛び回り始めた。おとなしく、カサコソしてればいいものを。と思ったが、逃してなるものか、と思い、「この野郎」と呼びかける。ゴキブリは驚いたのか、僕の右側頭部に着地する。そのまま、屋外へ。頭をフリフリ、手ではたき、教養廊下へ、ゴキブリを逃す。ちなみに、その前の夜は、夜間に、ゴキブリが俺のすね毛をしゃぶっていてびっくりした。どうにも、ゴキブリに懐かれているようだ。

ゴキブリは、考えてみると不思議な生命である。たとえば、ゴキブリは繁殖力がすごいと聞く。1匹見つけたら30匹いると思え、とか。でも、僕は、これまで、複数匹のゴキブリを同時に発見した経験がほとんどない。30匹いるにもかかわらず、一匹ずつしか現れない。これって、ちょっと不思議である。しかも、そんな単独行動主義者でありながら、複数のゴキブリで巣を共有するっぽいのだ。なんだ、それ。すごいなあ。

ゴキブリをいかに、簡単に捕獲できるか、をこの頃考えている。たとえば、部屋を暗闇にしてゴキブリをおびき出す、という作戦もありだろう。例えば、夜間に一時間ほど、外出して、外出中、カーテンも閉め、電気も消し、完全な真っ暗にするのである。すると、ゴキブリは、夜行性で暗闇を好むので、元気に姿を表すであろう。で、帰宅時に、一気にに全照明をつけ、強烈な光に驚いたゴキブリを、虫取り網かなにかで捕獲して、野外に投擲である。ふっと、ナウシカを連想する。

また、毛布うあシーツを活用する方法もある。ゴキブリは、大抵壁や天井にはりついている。なので、まず、その壁や天井の下にシーツを広げる。で、はたきか何かで、ゴキブリを払い落とし、シーツに落下させる。あとは、しーつをくるくるくるんで、屋外に持って行く。ばさばさと振り回せば、ゴキブリもどっかへ飛んで行かざるを得ないだろう。

ゴキブリは、意外と脆い。また、ゴキブリは頼む氏に比べ、人間に親和的である、と僕はこの頃感じている。ゴキブリは、簡単に潰れてしまう。カブトムシのように、外骨格が発達していないからだ。また、ゴキブリは、人間を怖がりはするが、意外と、頭に止まってきたり、足によじ登ったりする。ゴキブリに対する嫌悪感は、半分以上、広告代理店的イメージ操作によって生み出されているのではないかなあ、と思わなくもない。

というか、日記であった。ゴキブリについて語る記事ではなかった。にしても、僕は、ゴキブリを始め、カラス、ねずみ、などわりとみんなから嫌われている生物が好きである。ネズミは、かじってきたり、また、のみやダニを撒き散らすから、ちょっと迷惑ではあるが、ゴキブリ、カラスは、まあ、そんなに嫌いじゃない。特に、カラスはすきである。可愛い。カラスにもいろんな年齢層があるらしく、子供ガラスなのか、甘えたような、幼い声でなくカラスもいる。しかも、カラスは、カラス同士会話をしている節がある。どんな話をしているのか、興味深い。また、カラスは、仲間思いである。いつだったか、駅前に怪我したカラスが倒れていたのだが、その周囲の電線やら建物の屋根にびっしりと仲間カラスたちが止まって鳴き交わしていた。おそらく、その怪我したカラスは、状態からして助からなかったのだろうが、見捨てられたとは感じなかっただろうと思う。

日記の割に、昨日今日の出来事をあまり書いていない。そもそも、昨日の記憶が薄いのだ。図書館へ行ったり、散歩に出かけたりしたんだけど、ほかに何したっけ。覚えていない。たしか、午後からエアコンを活用し始めていた。暑さが身に堪えたのだ。僕の理想は、夏場一切冷房機器を使わなくてもいい、生活環境を整えること、なのだけれど、道の途中のようだ。風通しを良くしたり、植物を育てたり、衣類を工夫したり、生活リズムを夏用にしたり、いろいろやっているつもりだけれど、なかなか難しい。都市計画そのものを変えて行かないとなあ、と思う。アスファルトとコンクリートを今の半分くらいに減らさないと。あと、通気性の良い民家の復古。

夏、洗濯物がすぐ乾くのは、とてもありがたい。

たとえ、キャンバスがなくても

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今日描いた絵。

楽しくなり、ふっと、壁中絵の具まみれにしたくなった。賃貸なので、本棚を塗りたくることに。「この世界の片隅で」のポスターはもともと貼ってあったもの。そのままがいいかなっと思って、描いた。

日記

ちょっと、日記。疲れてきたからってのが大きい。夏の暑さのためだろうか、あるいは、躁の後の鬱のように、上がったり下がったり、ってことなのだろうか。でも、よくよく考えてみたら、別に、日記なんて書かなくてもいいんじゃないかな、って思えてきたりする。まあ、趣味ですから。

文章を書くのは、好きである。好きというか、もう、生活の輪の中に取り込まれているというか、もう、DNA上に上書きされているんじゃないかな、って感じさえする。でも、暑くてしんどいなあ、というのも現実。気がつけば、七月も中旬である。そりゃあ、暑くもなるわなあ。現在お昼すぎであり、一日で一番暑くなる時期なのであろう。

文章を書くのは何故か、と考えると、まあ、うん、寂しいからなのかなあ、と思えたり。この頃、いろんなものから逃げ出したい気持ちでいっぱいである。逃げたい、逃げたい、と思っている。ねばりつく泥のようなものに全身覆われており、けど、全力で走ったなら、にげきれるんじゃないかな、って気持ちさえ湧いている。人間が、嫌いである。

新しい仕事に就いたのであるが、特に無理なくこなせそうな仕事ではあるが、結局のところ、こなす仕事であろう。一年ほど働くつもりであるが、来年の秋頃には、実家へ戻ろう。戻りたい。なんで、今、戻ろうとしないんだろう。多分、まだ、自分に自信が持ちきれていないから、だろうか。何か、やましい感情がある。ああ、逃げたい。逃げたい。

日記を書こうか、書くまいか少しだけ迷っていた。ここ数日間作成していたメモ書きがいくつかあるので、そのメモ書きをふくらませようかなあ、と思ってノートパソコンを開いたのであった。でも、メモ書きを眺めているうちに、「このアイデアは、ま、いっか」ってのと、「このアイデアは自分の中にとどめておこう」ってのとの二種類のアイデアであることが判明した。メモ書きの中で、僕は、標語について考えていた。標語じゃないか、注意書き、か。例えば、「痴漢は犯罪です」とか、そういう看板。なんとなく、違和感があるのである。まあ、ここでは書かないけれど。もちろん、僕も痴漢はやってはいけない、と思うし、やらない。

日記というのは、僕にとって、感情の吐露である。で、それを人に見られたいのか、といえば、見られたくない。あれ、自己矛盾している。うーん、まあ、その、うん。自分でも、よくわからない。一つ言えることがあるとすれば、僕は、今、感情をセーブしながら、日記を書いている、ということだ。本当に見られたくない感情は、多分、この日記内には、描かれていない。

暑い。先ほどまでエアコンを使っていたのだが、エアコンを切った途端、だらだら汗が流れてきた。やっぱり、暑い。

ああ、いろんなことから逃げ出したい。実家に戻るという選択肢は、割合鮮明に見えている。実家を安心してくつろげる活動拠点にできると思うと、安心する。多分、僕は、拠点が欲しいのだろう。出撃基地、と、作戦本部、と、アトリエ、と。そんなみっつくらいの目的にかなった、最適な環境。どうやって、作っていこうか、どんな感じに作っていこうか、と考えるとワクワクする。他人が嫌いである。親切にされても、嫌いである。なぜだ。

急に、人間嫌いになることがままある。嫌いになったからと行って、特に、行動が変わる、というわけではない。いや、重度の時には、行動も変わるのだが、せいぜい、車道のガードレールを蹴りまくって、足を痛めるとか、そういうものだ。あと、極力、人に会わないようにするとか。極力ってすごい字面だよなあ、とおもう。力を極める、である。しかも、使用方法は、なるべくやらないようにする、とか、そういう消極的なニュアンスである。不思議である。

朝方、いくつかの文章を書き上げた。まあ、調子が良いのだろう。それと、アイデアが溜まっていたのだろう。一つ一つのアイデアを丁寧に膨らませることがめんどうで、ごった煮にして、二、三のアイデアをモチャモチャさせてある。

「黙殺」という本をパラパラと読む。政党に属さない選挙立候補者についてのドキュメンタリーだそうだ。軽い嫉妬を覚える。

暑い。

昨日、めちゃくちゃ深爪になったのだが、どういうわけか、もうすでに半分くらい回復している。そういえば、昨日、「回復」って言葉について考える。回復って元に戻るって意味なんだろうけど、この世界にあるもので、元に戻ることは原則的にありえないあろうから、「回復」という概念は空集合だよなあ、と。そんなことを考えながら、昨日電車の乗り換えをしていた。その情景というか、駅のホームの階段を登って、別のホームへ行く過程を、なぜか、いま鮮明に思い出している。あ、神戸屋がある。とか。紫色の髪の下おばあちゃんが急いでいる、とか。背の低い男子高校生が斜めに歩いている、とか。

記憶に関していえば、まあ、いっか。

こうしてブログを書きながら、思うのは、文章を書くごとに、持ちネタがふえていく、ということ。引き出しの多い人少ない人、などというが、引き出しごときでたとえられないだろうなあ、と思う。誰だって、まあ、何千と引き出しはあるだろう。引き出しっていうか、金庫か。鍵付きの。

でも、自分の思考を、引き出しとして、固定させたくないなあ、と思う。自分の役割が決まってしまうようで、面倒くさい。

人間のことが嫌いになるのは、さびしいからなのかなあ、とふっと思ったりする。

支出と収入と家畜にまつわる思考実験。

牛を殺したり、馬を殺したり、鳥を殺したり、豚を殺したり、山羊を殺したりするのは、きっと、こうした家畜たちを育てるのに、少なからず、おかねがかかるようになったから、なのだろうなあ、と思う。つまり、家畜を屠殺する食肉文化と、貨幣文化は、なかなか相性がよろしいようだ。

以下、僕なりの説明。

まず、現状の分析から(といいつつ、以下の文章は、純粋に思考から導いたものであり、実地取材したわけではないです。なので、もしかしたら現状と齟齬があるかもしれません。)

牛にしろ、馬にしろ、鳥にしろ、豚にしろ、山羊にしろ、今日では、彼らを飼育し育成するには、少なくないお金がかかるだろう、と思われる。具体的には、土地代、飼料代。つまり、こうした家畜を育てる以上、どこかで、家畜らを利用してそれ相応の収入を得なければならないわけだ。破産しないためには。で、そのために一番手っ取り早い方法が、家畜を屠殺して、肉を売ること。これが、今現在日本で、家畜を飼育する人たちの現状なんじゃないのかなって思う。

で、ここで、思考を現在の日本から飛ばしてみよう。例えば、弥生時代とか、そういう時代に、あるいは、モンゴルあたりの遊牧民の生活へ。

おそらくなのだが、もともと、僕たちは、ゼロ円で家畜を飼育して射たはずなのだ。土地代は、かからなかっただろうし、飼料代だって、その辺に生い茂っている種々を、家畜たちが自由に食んでいたはずなのだ。僕たちがすることは、オオカミなどの捕食者から、家畜を守ることや家畜が逃げ出さないように見守ることだろうか。それにしたところで、家族ぐるみで放牧を行っていただろうから、雇用費はかからない。となると、どうなるか、つまり、支出分以上の収入を得なくてはならないどころか、そもそも支出が、少なくとも金銭的には存在しないため、例えば、牛から一リットルでも乳が絞れたら儲けものであり、また、鶏から一つでも卵が生まれたら儲けものなのである。支出が一切ない世界でなら、僕たちは、家畜の命を故意に奪う必要はないのではないか。もちろん、自然は厳しいかもしれないし、細かい点で、困難は存在するかもしれない。でも、僕たちには、他者の命を奪わなくても、生きていける可能性が、ほんのわずかにでも、存在しているのではないか。

ちょっと大げさな話をする。例えば、美味しいお肉を食べたい、と思って豚を殺すのと、殺人が楽しくてたまらなくて人を殺すのと、どれくらいの違いが存在するっていうんだろう。前者も、とどのつまり、味覚という快楽を楽しませるための豚殺しであり、後者は、いわゆる快楽殺人である。どちらも、快楽のために、殺しが行われている。僕は、他人に自分の考えを押し付けることはできない。でも、どうにも、こうした点を一切考えずに、みんな右から左に流れて行っている気がしてならない。それは、俗に、思考停止状態というんじゃないのか。

ずっと、むかし、とある小学校で、豚を飼育し最後にみんなで屠殺するかしないかを話し合い、結局、屠殺して食べる、みたいな授業が行われたと記憶している。でも、その程度のことが食育なのかよ、と僕は思ったりする。なんだ、その民主主義の押し付けは。どうしても、殺したくない、って感じた少数派は黙殺か。そもそも、どうして、みんなで決めるんだ。どうして、答えが食べるか食べないかの二択だけなんだ。どうして、答えが、選択問題として事前に用意されているんだ。不条理だと感じる問題に対して、事前に想定された解答のみで、解決できるはずがないだろう。全く新しい可能性を、模索するしかないだろう。これまでの判決判例じゃ、なにもかもがもどかしいのだから。(と、感情的に書いてしまったが、ここで取り上げた小学校での特別授業について、僕は、子供の頃一度特集番組を見た程度の知識しかない。もしかしたら、僕の誤解によって、あらぬ批判を行っているかもしれない。なので、この段落での批判は、あくまで、現実に行われた授業に対して、ではなく、僕の想像の中で思い描かれた「命の授業」に対して行われている。)

ゼロ円って発想は、坂口恭平さんから影響を受けているのだが、とても、すばらしい発想だ、と思っている。例えば、より生活費を安くって発想より、生活費をゼロ円に、って発想の方が優れている。何故ならば、より安く、では、比較の思考になってしまうからだ。たとえば、月十万でくらせたとしても、より安く暮らしたいと思えば、焦りや煩悩が湧いてくるかもしれない。でも、いっそ、ゼロ円が当たり前、って発想に切り替え、実際に実践できれば、そうした煩悩からおさらばできそうである。ゼロは一つの究極である。ないのにある。あるのにない。ってすごい。

少しずつ少しずつ、ゼロ円領域を増やしていけばいい。例えば、ぼくにとって、お茶は、ほぼゼロ円領域である。お茶っぱとなる草は近所の公園から無料で手に入るからだ。水道料金も定額なので、新たに水をくんでも請求額はゼロ円である。お湯を沸かすための電気代は微量にかかるんだけれど。

自分がちっぽけになったり、大きくなったり。忙しないなあ。

ゼロ円志向というのは、現代人なりの、自然への回帰なのだと思う。