日記 36 「ずるい」って何か

以下の文章は、ようわからん文章かもしれない。

 

障がい者福祉について。続き。ただ、半ば箇条書きである。というのも、某は、今、軽く鬱状態になっており、頭の芯の方がぼうっとしているからだ。

身体障害者の介助について。

身体障害者の介助に携わることで健常者が身体を壊すことがある。これってなんなんだ。

(と言っても、身体障害者にとって移動時や姿勢を変える際の介助は必要である。なんというか、某は、ただ、この現状がよくわからないだけだ。

本音を言えば、好きな相手の介助なら喜んでやるが、好きでもないやつは放っておきたい。それでいいじゃないか、って思いがある。)

・知的障がい者が食べ物を喉につまらせた。

なぜ彼女が食べ物を喉に詰まらせたか。それは彼女が食欲の塊だったからだ。彼女が悪い。彼女が自身の嚥下能力を考慮せず、ばかのようにたくさんの食べ物を飲み込もうとしたからだ。彼女が悪い。

救助措置、応急措置は取らねばならない。けど、彼女が悪いのだ。職員が心を悩ませることはない。でも、なんなんだ、この空気は。どうして職員たちは彼女の母親にぺこぺこ頭を下げている。彼女が悪いのに。

彼女が悪いから、喉に食べ物を詰まらせて死にそうになった。けど、応急措置でことなきを得た。よかったね。で済ませばいいじゃないか。

 

ようわからん。

 

多分、僕は、「他人の命にそんなに責任は負えないよ」って思いがあるのだと思う。所詮みんな最後には死ぬんだし。

 

障がい者福祉について回る倫理観とか、社会活動が、僕にはよくわからないのだろう、と思う。

 

まあ、これを言っちゃおしまいだってことを最後にいう。というのも、これを言っちゃおしまいだって思っているのは世間の方で、僕自身はそう思わないからだ。ここから始めるしかない。

 

「なんでてんかん発作の障がい者は発作時周囲にいる職員どもにちやほやされるのに、僕が苦しい時は、僕一人でなんとかしなくちゃいけないんだ」

 

悔しいのか羨ましいのかよくわからない。

 

が、その一方で、僕自身が苦しいのは、僕自身でなんとかしていかなきゃならんことなんだよなあ、とは思う。その方がきっとうまくいく。

 

おそらくなのだが、てんかん発作時にちやほやする方がちょっとおかしいのだ。何かしら条件が揃わない限り、てんかん発作で人は死ぬことも怪我をすることもないのだ。(例えば入浴時の発作、自動車、自転車運転時の発作などは死へ繋がるため配慮が必要だけれど、寝ている時に発作がきたからと言って死にはしない。)

 

羨ましかったのだろうなあ、と思う。ちやほやされる障がい者が羨ましかったのだろうなあ、と思う。彼らにだってというか、彼らにはたくさんの不自由があるわけだけれど、羨ましかったのだ。まあ、それだけ。

 

障がい者の権利運動って本当に一枚岩なのか?疑問。当たり前のように一枚岩じゃないだろう。けど、「当事者」って言葉とか「仲間」って言葉とかを彼らは用い、まるで、一人一人の活動家が全ての障がい者のことを思っているみたいに振る舞う。

けど、本当かよ?

本当のところどうなんだ?

みんな幸せの「みんな」って、とどのつまり、「障がい者」じゃないか。まあ、そういうもんだよなあ。とは思う。

 

ずるい。

なんなんだこの感情は。

別に欲しくもないものを欲している。

ゴミを求めている。

ずるい。

なんだ。

 

攻撃的な感情が沸き起こるが、その攻撃的感情を俯瞰している僕もいる。全てに対して馬鹿馬鹿しいと感じる。

 

ずるいぞこの野郎、という感情を誰かにぶつけたいみたいだ。いや、違うなあ、ぶつけたいわけでもないし、誰かである必要もない。ただ、僕は、ずるいぞこの野郎と思っているだけだ。

 

人間関係って恣意的だから、なんとなーく、ずるさを感じてしまう。

人間が人間的になればなるほど、その人間的な振る舞いって恣意的だから、そんなのずるい、って感じがしてしまう。ちなみに、ここでいうずるいってのは、ハンターハンターのゴン・フリークスの台詞でもある。

人間関係の総体をある一角度から眺めると、「ずるい」と思われるのだ。けど、それは、人間関係の総体をある一つの角度から眺めた結果だ。別の見方もあるし、別の見方は無数にある。

とはいえ、このように、新しい道を発見した風を装いながらも、なあんにもかわっちゃいない。

 

人間関係ってずるいのだ。

 

けど、同時に、人間関係をもってして「ずるい」なんて概念を作ってしまった人間ってのも、不可思議である。それは自我が存在することだけじゃ説明がつかない。

 

その一方で、「ずるい」って言葉で、人間活動の大半が説明されてしまうのも事実だ。パンフレットや広告などが特にそうだ。特に「ずるい」。別に僕は少なくともここでは、彼らの「ずるさ」を告発したいわけじゃない。ただ、何がしかのパンフレットなり広告を作成すると自然、「ずるさ」が醸し出されるという事実を指摘したまでだ。

「ずるい」ってなんなんだ。じじいが孫を可愛がるのも「ずるい」である。となると何でもかんでも「ずるい」になる。

 

話というのは中途半端に終わるから面白い。終わり。

日記35 障がい者福祉

某は主に左腎臓を痛めたようだ(某から見て左側)。腎臓って痛みを感じるのか、便利だなあ、と思う。今、目が覚めて、朝の水分補給をとった。すると、左脇腹が、きゅっきゅっと痛み始めた。血液をろ過しておしっこを作っているのだろう。紡錘体とかいうんだっけ?ボーマン囊だったっけ?忘れた。生物の図録に載っていたイラストは覚えているのだけれど、名称はうろ覚え。

障がい者福祉って難しいなあ、って今更のように感じている。まあ、人間関係って難しいね、ってだけなのかもしれない。難しい人間関係を固定化してしまうと、某のような人間には辛いのかもしれない。当たり前の話なのだが、某には好き嫌いがある。これを障がい者福祉の現場に当てはめれば、好きになれる障がい者とどんどん嫌いになる障がい者とがいる、となる。障がい者福祉というのは、要は障がい者の世話をするってことだ。支援とか介助とか言い方を変えたって同じことだ。で、某はわがままなので、嫌いな野郎の世話をするのは嫌だったのあろう。無意識的に、肉体的に拒否反応が出たのだろう。

正直なところ、気持ち悪いなあ、こいつと思う障がい者もいる。そりゃそうだ。健常者にだって、気持ち悪い奴はいる。人間には気持ち悪いやつと気持ち悪くないやつとがいる。そりゃそうだろう。大学教授にだって気持ち悪い大学教授もいれば、気持ち悪くない大学教授もいる。タレントにだって、政治家にだって、小学生にだって、そういう区別は働く。

なぜから知らないけれど、気持ち悪いやつとずっと一緒にいると、某は傷つくようだ。不思議である。別に、明確に攻撃にされされているわけではない。ふっと、内心「なんなんだこいつら。食う寝るオナニーしか興味がないのか?」とか思ったりすると、次いで虚しさや苛立ちを感じてしまう。一切笑顔なく、こちらと接してくる人間には殴りたくなる。殴らないけど。

思い返してみると、「こいつと付き合うのは無理だ。しんどい」と思った相手は大抵、笑顔がない人間だった。ここでは障がい者健常者は問わない。もちろん、そいつらは笑わないわけではない。ただ、某に向かって笑いかけることはなかった。もちろん、嘲笑われるのは、別の意味で苦痛だが、こちらが笑いかけても、一切表情に反応がない人間は、死ねばいいのにと思う。今、実は、「死ねばいいのにと思う。」ではなく、「一緒にいて苦痛だ。」と書こうと思った。が、気がついたら、「死ねばいいのにと思う。」と書いていた。本音なのか、一時的な怒りゆえなのか、微妙なところ。

何はともあれ、某にとって、対人コミュニケーション上で笑顔がないことはかなり辛いことなのであろう。そもそも、笑顔がないということは、某を支配しようとしている可能性がかなり高い。抑圧的振舞っているということだからだ。あるいは、某の存在をあってないようなもの、ロボットか何かのように捉えているのだろう。

某は、正直言って、人間の好き嫌いが激しい、一度嫌うとなかなか好きになれず、また、大体の人間を初対面の段階で少し嫌いになる。そういう人間ではあるのだが、反対側から、某を嫌っている人間の側から某を眺めてみるとどうなるのだろうか?某が嫌っている人間は、大抵、某をなにかロボットのような意識のない存在として理解しているのではないだろうか?これは某の思い込みか。話を障がい者福祉に戻すが、障がい者の方が社会的に差別されかねない状態なのは事実だが、一方で、一部の障がい者の側も某のことを、何か自分の世話をするだけのロボットやルール(あれはしてはいけない、これはしてもいいを判定する)として見ていたのではないか、と感じてしまう。もちろんごく一部だけど。

話がわかるってどういうことなのだろう。一緒にいて辛いなあ、と感じる障がい者さんに対する印象は「こいつとは話が通じない」って言葉に集約される。仲良い障がい者さんとも、ちょっとした誤解で喧嘩してしまうこともあったが、でも、話がわからないという感じはしなかった。「そういう障がいなんだから、仕方ないじゃないか。お前が相手(障がい者)に合わせろよ」と言われても困る(けど、そのような「標語」は障がい者団体は常に顕揚する。そこにも辛さを感じる。障がい者団体というのは、とどのつまり、障がい者の権利を主張する圧力団体なのだ。その圧力をもろに食らうと一個人に過ぎない某は押しつぶされそうになるのだ。権利の主張は大切なことなのかもしれないが、ある一面では常に暴力的だ。)。某は、そこそこ合わせているつもりなのだ。いや、どうだろ。合わせていないかもなあ。というか、「話が通じない相手」に話を合わせるって、どういうことなんだ?それは、まるで、某が某自身を機械のように扱うってことじゃないのか。「話が通じない相手」だとしても、大抵の障がい者さんには三大欲求くらいある。食いたい、寝たい、オナニーしたい。食いたい、場合何を食いたいのかはジェスチャーを通じて相互理解が可能だったりする。けど、「話が通じない障がい者」とのコミュニケーションの全てが「そいつが何を食いたいか」だけというのは、まるで自動販売機にでもなった気分だ。こいつにとって、某はただ食い物を運ぶ機械なのか。まあ、んなこといったら、そこらへんの料理屋の店員はみんなそうなるか。でも、一切の感謝なく、ただ料理を運ぶ、用意するそれでおしまいって、なんなんだ。まあ、某の側の問題でもある。そのようなコミュニケーションで一向に構わないって人々もいる。結論なんていつだって味気なく、ただ向き不向きの問題なのだ。某には向いていないようだ。いや、部分的には向いているのである。初めから述べているように、某は人間に対して好き嫌いが激しいのである。好きになれた障がい者さんとは、これまでだってこれからだって良好に関係を築いていくのである。嫌いな相手だと、某の精神ないし肉体が故障するのである。ただそれだけだ。嫌いな相手当人がどうなるかは知らない。何も変わらないんじゃないだろうか。なにも変わらないところが嫌いなのだ。まるでかちこちに固まった粘土みたいで。。

日記34 休みます

腎臓を痛めたようだ。

全身からおしっこの匂いがする。

白いうんこが何度か出た。

ヒジ関節か痛む。

動悸が激しい。

脇腹が痛い。

立ちくらみが頻繁に起こる。

おしっこの匂いがきつく、いつもより頻繁に出る。

 

休憩休憩。休養が大切。

日記33 プロ論他

疲れた。某は疲れた。両肘の関節が痛い。白いうんこが出た。節々の筋肉が細かく肉離れを起こしている。意識が朦朧となり電車に轢かれそうになった。吐き気が止まらなかった。体全体が拒否反応を示している。なぜこの社会は人が働くことを前提に回っているのだろうか?

プロってなんだろう?プロって言葉が何かおかしな方向へ捻じ曲げられている。プロの品質ってなんだ?プロとはすなわち、1円で手に入れたものを、100円でうる人々のことだ。少なくとも、そのような人々が大手を振ってプロを名乗っている。某の目にはそれがよく見える。プロって言葉を好む人々。プロって言葉で着飾る人々。彼らは自分たちの浅ましさを言霊によって取り繕っている。人々を騙している。プロの仕事ってようは、その仕事で、金をがっぽがっぽ稼いでいますよってだけのことだ。そして、金を稼ぐってことはさっきも述べた通り、1円の品物を100円で売ることだ。なんだ、それは。騙しじゃ、ないか。

プロって言葉が大っ嫌いだ。どうして、みんな臆面もなくプロ意識だの、プロの仕事だのと、騙しの言葉を使うの?

逃げたい。この社会から逃げたい。逃げると決めた。こんな社会からは逃げると決めた。逃げる。誰もが平和に楽しく暮らせる理想郷へと某は逃げる。逃げる。逃げる。逃げる手はずは順調に整いつつある。

逃げられるはずなのだ。そもそも、他人のために働くって発想がおかしいのだ。自分たちのために働いて、そして労働量など一切無視して交換経済を展開すればいい。

祭りってなんだ?祭りとはすなわち「普段全然仲良くない人々が、一時的に仲良く振る舞う行事、である」。ある一面で、休戦協定のごとき平和的色彩を感じさせる。けど、祭りそのものは、本来不毛だ。もともと一体感のなかった人々に、半強制的に一体感を醸し出す装置それが現在の祭りなのだろう。運動会、学園祭、地方の祭り。

プロってクズなんだよ。そのへんをよくよく理解したほうがいい。子供が好きでもないくせに、プロ意識で子供の相手をする塾講師、保育士、ほら、クズだろう?プロ意識ってただのこだわりに過ぎないんだ。そして某自身、そのこだわりからまだ抜け出せていない。

体育ってなんだ?それは体を育てることだ。となると、昼寝だって体育だ。ご飯を食べることも、うんこをすることも、友達と遊ぶことも、学校を休んで野山で駆け回ることも体育だ。スポーツ好きの人たちは勝手にスポーツを楽しんでいたらいい。けど、スポーツは本来は、体育じゃない。体育ってのはもっと大きな概念なのだ。体を動かすことだけが体育ではなく、体を動かさない休息だって体育だ。お風呂にはいることも体育だ。

疲れた。疲れた。本当に疲れている。両腕の筋肉が、引き連れを起こしている。白いうんこが出た。バリウムなんか飲んでいない。逃げたい。逃げる。某は逃げる。逃げ切る。逃げ延びる。生き延びる。そして、最後には死ぬ。

虚しさの先に、未解明の世界が広がっている。虚しさの先にしか、未解明の世界は広がっていない。別に、解き明かす必要はないが、某は、虚しさの向こう側からやってきて、なぜかここにいる。

真面目ってなんなんだろう?実は、真面目って言葉はほんとうはとてもとても幅広く使える言葉なのだ。ソローは「良心的納税拒否者」なんて一見訳のわからない言葉を使った。真面目ってのはようは真心ってわけで良心ってわけだ。いや、適当なことをいうのはよそう。ソローだって不完全な人間だった。

苦しい。怖い。楽しくない。吐きそう。疲れた。恐ろしい。わけがわからない。ごく自然に攻撃的気持ちがわく。不安。力が抜けない。安らげない。本当は、大半の人間のことが嫌い。

仕事ってなんだろう?幼い時分より、仕事の意義がよくわからなかった。ハム屋は、牛や豚のお肉に、絵の具を混ぜているだけ。ホテル屋は、奴隷のふりして金持ちから金をせびるだけ。小学校教師(の大半)は、子供達を支配するだけ。障がい者福祉は、無意味な労働を障がい者におしつけるだけ。政治屋(の大半)は、権力へ群がる蝿。スーパーは、子供たちに化学調味料をふりまくばかり。なんなんだ、この世界は?

まともな仕事って水木しげるさんの漫画くらいだ。

まともな仕事ってなんなんだ?

日記32 不登校の子を持つ親へ

日記。

不登校の子どもを持つ両親へ。もしかしたら、あなたたちは憲法を恐れているかもしれない。憲法に記載された(正確な表記は覚えていないが)子供に教育を受けさせる義務に自分たちが違反しているのではないか、と恐れているかもしれない。が、恐るるに足らない。子供に教育を受けさせることが親の義務であるなら、自ら子供に数学や読み書きなどを教える時間を設ければいい。それである程度、義務は遂行したことになる。教育を受けさせる方法などいくらでもある。

これは日記なのかなあ。知らない。

某は運動会が嫌いである。なぜならばうるさいから。あと小学生だった頃、運動会の徒競走でヤジを飛ばされたことがあるから。なんで嫌な目までして無意味に走らなければならんのだ、と思い走るのをやめてしまった。運動会の本質は無意味なのだろう。

運動会って軍事演習の模倣なんじゃないかなあ、と思ったり。

そもそも、なぜ学校でスポーツを教える必要性があるのか?なんて某は思ったりする。体の動かし方を覚えるのはいいことだ。けど、スポーツをやる必然性ってない。重いものを持つコツ、とか、危なそうなやつから走って逃げる練習とか、あと、泳ぎ方とか、実は人間ってその気になれば泳げるんだって事実とか、を伝える必要はあるのだろうけれど、スポーツってばかばかしい。昔、サッカーの守備についていた際、一向にボールが来ないから、あほらしく座り込んでいて怒られたことがあるが、ずーっと立ちっぱなしでいることにどんな意味があったのだろう。座り込んだ某はそれはそれでありだった。たあ、素っ裸になって寝転ぶのがもっとよかった。日光浴になるし、地面を肌で感じられる。

なんというか、子供の遊びと、スポーツってなんか違うなー、と思う。あくまでわかりやすさを優先した例なのだけれど、クレヨンしんちゃんのしんちゃんがよくやるごっこ遊び。あれが子供本来の遊びに近い。木にしがみついてセミに擬態してみたり、芋虫みたいに這いずり回ったり、けつだけ星人って結構な運動量だよなあ、と思う。体を使った自己表現、とでもいうのだろうか。自己表現というか、何かを演じている感じか。演じるって意識もなくただ体を使っているって感じだろうか。スポーツを通して戦略を学べるって面もあると思う。けど、効率的に相手をやっつける方法=戦略なんて学んでもなあ、と某は思う。

冒頭に書いた不登校の親御さんへのメッセージ、結構気に入っている。それがし自身、小学校中学校高校大学とろくに通わなかったのだが、実は、幼稚園も一度退園しているのだが、母は時折、それがしに算数を教えていたわけで、まあ、子供に教育を受けさせる義務をわりとしっかり果たしている。結局のところ、程度問題なのだ。程度問題ってことはどの程度がよろしい、なんて答えなどない。そもそも、学校教育だけが、教育なのか?という疑問もある。しかし、同時に、カルト教団の洗脳も教育と呼べるかも?という恐ろしさもある。当人のためになる教育が正しい教育などと簡単に断言してしまっていいのだろうか。そもそも、当人のためになるってどういうことだ?その教育を受けると、将来金持ちになりますよ、ってことなのか。それって本当に当人のため?じゃあ、TACにでも通わせれば?小学校の代わりに。なんとかっていう教員試験合格者をばんばんだしているらしい学校に行かれせば?中学生を。ばーか。

ちなみに、不登校の子には、フリースクールを紹介するか、さもなくば、放送大学とかNHKとかの教育番組を一緒に見るか、なにか、他の教材を使って学ぶか、一緒に博物館へ行くか、一緒に動物園や植物園に行くか、一緒にキャンプでもするか、そもそも、一緒に料理とかして調理法とか食材の栄養価について教えるとか、会社に連れて行って社会科見学と称するか、役所への書類申請時に一緒に連れて行くとか、あと選挙投票日、選挙会場まで一緒に行くとか、単純に近所の公園でキャッチボールをするとか、まあ、そんなんでいいんじゃないの?と某は簡単に考えています。だって、そうでしょう?

小学校で近所の工場見学へ行くのと、あなたの職場へ我が子を連れて行くの、そんな差ってないと思うよ。

学校の体育と、近所の公園で親子で遊ぶのとそんな差ってなかろう。

一緒に料理したり、キャンプ場へ遊びに行くことと、家庭科での調理実習ってそんな違いがあるだろうか。

まあ、よくよく考えてみたら、学校でやっていることって、その気になれば、全て家庭で行えるのだ。

まあ、無理のない範囲で。

日記31

散歩から帰ってくる。散歩中は色々考える。けど、色々感じてはいないかもなあ、と思う。今後は感じ考えていこう。

以下、メモ書き。

植物が枯れるのは、植物の生活の質が低いままだからだろう。うんぬん。

わざわざ隠すことではないのでいうが、某は数年間(知的身体)障がい者の作業所に勤務していた。で、勤務するからにはいろいろこれはおかしい、と感じる場面にたくさん出くわした。ありがたいことだ。で、そのうち一つ、署名への半強制。いろいろな署名が回ってきたが、某個人の意見など御構い無しに、「書け書け」。ただ、他人から与えられた意見に賛同するだけの署名活動に、どれほどの意味があるのだろう?知性を育む土壌があそこにはなかった。

卒業することど同程度に、途中でやめることも大事だろう、とふっと思った。単に、某自身が辞職して以降、知的身体精神全面において成長を遂げているからだ。なにかしらの機関や学校を卒業することが成長につながる場合もあれば、何かしらかの機関を途中でやめることで成長する場合もある。途中で読むのをやめた本が案外記憶に残ることもある。

子供達に学校以外の場所があれば、学校が窮屈に感じなくなるだろう、という思考の果てが、マックスポーツや類塾なのだろうか?と愕然としたりもした。まあ、マックスポーツや類塾がどのような場所なのかは知らないけど。子供の居場所って、なんなんだろうなあ。それは何か役割を押し付けられる場所でいいのだろうか。保育園や小学校が子供の居場所なのだろうか。なんにもない場所を作りたい。

素朴な疑問から出発しよう(1)

当たり前から出発しようの姉妹版?なのかしらん。

 

この〇〇から出発しようってタイトルには元ネタがあるのですが、恥ずかしいので秘密です。

 

素朴な疑問。

 

米ってなんで洗うの?

あと、米を洗うことを研ぐっていうのはなんで?

 

特に理由は調べていません。というのも、考えることが目的だから。

調べてそれっぽい情報を得て納得するって、要は、他者からまるめこまれているとも言えるから。

 

なぜなんだろう?ここでいうなぜは理由を追求する場合のなぜとは、限らない。

なぜ、って言葉は某にとっては、もっと漠然と曖昧で焦点の定まらない疑問詞です。それでいいんじゃないか。

なぜ。