こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

少し長い独り言

どういうわけか知らないけれど、自分が正しい、って思うとしんどくなる。この間も、気がついたら、しんどくなって三日ほど寝込んだ。頑張っているときに、そういう風に陥る。頑張って頑張って頑張って、自分が感じたこと、自分が考えたことを推し進めていると、同にも気がついたら、自分以外の人の考えを全て否定して、自分こそが正しいんじゃ、と思い込んでいる。でもって、しんどくなる。自分が正しいと思ったら、しんどくなる、どうしてそういう連関が起こるのか、理屈はよくわからない。ただ、自分の考えに固執すると、脳みそにいばらの冠でも巻きつけられたみたいに、ぶすぶすと脳みそに五寸釘でも打ち込まれているみたいな感覚に陥る。そうした傾向は、僕だけなのかもしれない。他の人のことは知らない。

世の中に対して、目に映る様々なことに対して、変なの、と感じるのは、別に良いと思う。変だなあ、と感じる際は、特に頭に痛みを感じない。変なの、が、これっておかしい、こんなの間違っている、に変わると、使命感に燃えて、活動的になる一方、活動の半ば当たりで、頭の調子がおかしくなる。急に不安や寂しさを感じたりする。

話は変わるが、勝負事に臨む際も、この感覚に陥ることがある。勝ち負けの明確なボードゲームとかギャンブルとか。俺の方がすごい、対戦相手を完膚なきまでに打ち負かしたい、そういう思いが働くと、勝負に熱中し、あとあとになって頭に痛みを抱える。実は今しがたもそのような状態である。勝負には勝っても、痛みが残るから、全然楽しくない。僕は、勝負事には向かない人間なのかもしれない。勝負事に年がら年中熱中している人(しかも、勝負強い人)、というのは、負けることに寛容というか、対戦相手を敬っている節がある。僕はただ、相手をボロボロにしたくて勝負をする。そんなだから、まあ、お互いに傷つくような勝負になる。ギャンブルやゲームに依存する典型的なタイプなのだろう。

朝方、ブログの記事を書いた。二つほど。書いた時は、いいこと書くなあ、俺と思ったのだが、今となっては、独善的で、他人の生活を慮っていないな、と感じる。内容自体は、書いておきたかったこと。僕自身が、普段、この世界において違和感を感じることを、素直に書いたつもり。感情を素朴に綴ったつもりであるのに、思い返してみると(読み返してはいない)、自分こそが正しい、自分以外は間違い、というつまらない線引きにしか思えなくなる。

世界に対する違和感は発露して行きたいのだが、その発露の仕方が問題なのだな、と現時点で解釈してる。

そもそも、自分は自分他人は他人なのだ。他人の生き方は他人が決めればいい。そんな他人の生き方まで、とやかく差し出口を挟もうとしているから、我ながら、自分の思考に苛立ちを覚えるのだろう。でも、だとしたら、このブログの存在理由がなくなるわなあ。存在させなくていいなら、こんな楽なことはない。自分の中に空白が一つできれば、それだけ、気楽に生きていける。