マッチポンプについて

マッチポンプという言葉があって、この言葉はとても便利である。世界や自分自身を振り返る時、なるほどなるほど、と理解が深まる。理解が深まる、というより、無意味な頑張りを取り除くきっかけになり、肩の力が抜ける。

マッチポンプというの一つの比喩である。あるところに、放火魔がいました。彼はマッチを一本擦り、放火する。ボウボウと燃え上がり、みんな何事かと駆けつける。そこで、何を思ったか、放火魔の彼はすぐさまポンプにて水を汲み消火する。そして、言うのである。「俺が火事を消したんだぜ。俺がみんなの命を救ったんだ」。このように、自分自身で事件を発生させ、その事件を自ら解決することで、周囲からの尊敬やら何かしらかの利益を得ようと目論む行為や人々のことを、マッチポンプと呼ぶ。似たような言葉に置き換える、「自作自演」ともいう。

マッチポンプ的な行為は、はっきり言って無意味である。端から放火しなければ、消火活動は必要ないのだ。けど、そうしたマッチポンプ的な行為って、この世の中に溢れかえっている。

例えば、ハラスメントやいじめの多くは、マッチポンプだろう。ハラスメントというのは、簡単にいうと、ハラスメント被害者に無理難題を押し付ける、あるいは、相矛盾する命令をハラスメント被害者に下し、ハラスメント被害者の精神を混乱させ、知性を劣化させ、精神的に支配してしまう状況のことかな、と思う。具体例は省く。要は、ハラスメント被害者に解決不能な問題や課題を与え、精神的ダメージを与えた上で、加害者がハラスメント被害者に何かしらかの援助を行う。その援助の結果、被害者が加害者の被支配下におかれる状況をハラスメントという。僕の理解では。

教育というのも、マッチポンプ的な側面がある。まず、子供に子供自身で解決不能な問題を与える。その後、その問題を解決するための方法を先生が教授するのである(その際、人格の優れない先生の場合、「こんなこともできないのか」と生徒をなじる場合もある。その場合、解決すべき問題を発生させているのは、先生自身(あるいは教育制度自身)であることを認識したほうがいい。)。マッチポンプだなあ、と思う。もちろん、現状行われている教育というものが、いきなりなくなれば社会は混乱すると思う。でも、教育の基本スタイルがマッチポンプであることに、僕は違和感を覚える。

環境問題についても、マッチポンプはありふれている。例えば、夏場の日中、屋内にて、蛍光灯を点け、パソコンを作動させ、家電類も並行して作動している屋内というのは、半端なく暑い。暑いのでエアコンなどで室温を調整する。ここにもマッチポンプが潜んでいる。夏場に、蛍光灯なんかつけるから暑いでのある。パソコンやら家電類をむやみに稼働させるから、発熱するわけである。もちろん、夏は暑いか、その暑さを助長する生活スタイルが僕等には身に沁みている。そうした生活スタイルを変えていけば、夏って、そうそう死にそうになる程暑くはない。インドではないんだから。

全てのマッチポンプが無意味か、というと僕はまだ、そう断言はできない。雨降って地固まるってこともありうるからだ。友人知人間の喧嘩がそうだ。喧嘩ってほんの些細なことから始まる。よくよく吟味すると、何かきっかけがあって喧嘩が始まったのではなく、双方ともなんとなくイライラしており、そのイライラの解消のために喧嘩を始めたってケースが圧倒的に多い。で、しばらくすると、お互いに謝罪し合い、仲直りする。多くの場合、以前よりもまして仲良くなったりする。こうした喧嘩→仲直りも、マッチ→ポンプとみなせなくない。けど、この場合は、より仲良くなるっていう、効能がある。

が、そうした例外(幸福なケース)を除外すれば、大半のマッチポンプは不要だろう、というのが僕の現在の見解である。広告って基本的にマッチポンプである。例えば、「わきが」「加齢臭」と言った、自然に発生するにおいに対してレッテル貼り(問題提起=マッチ=放火)を行い、その上で、そうした臭いを解消する道具として、香水やらサプリやら(問題解決手段=ポンプ=消火活動)を提示する。自作自演だなあ、と思う。

塾産業なども、同様。偏差値という評価基準を提示し、その解決策としてセミナーやら家庭教師やらを提示する。ひどいなあ、と思う。

犬に洋服を着せる習慣もそうだ。外出時は犬でも洋服を着せなくてはならないって思い込み、その思い込みを犬に押し付ける。でも、犬は一人では着替えができない。結果、飼い主が犬の着替えを執り行う。「着替えすら一人でまともに執り行えないあなた(犬)は私(飼い主)に徹底的に依存するしかないのよ」という言外のメッセージがそこにはある(んじゃないかなあと思う。勘繰り過ぎ、かもしれないけれど。)。本当に、犬が洋服を着なくちゃいけない理由ってあるんだろうか?

犬の部分を子供、幼児に、飼い主の部分を大人、親、先生に、着替えの部分を、例えば、教育だったり、習い事だったり、作法だったりに置き換えてみてもいいと思う。

自作自演を工夫して、他者を支配しても、空しいだけじゃなかろうか、と思う。

 

最後に、

こうしたマッチポンプ、自作自演を見抜く目は、節約術にも応用可能である。というか、バンバン活用できる。マッチポンプ、自作自演=無意味、無根拠、と切り捨てて、どんどんどんどん生活をわかりやすく、気楽にして行くのである。気楽っていい言葉だと思う。