こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

常識やマナーについて。

常識やマナーは人間の能力を束縛する方向に、働きかねないから、好きじゃない。

例えばの話、二十メートル先のゴミ箱に、百発百中、クズゴミを投擲できれば、それって能力だし、天気予報を一切見ずに、二、三日先の天気まで予見できるってのも能力だと思うのだ。

この二例は、きっと、誰だってそりゃそうだよね、って認めてくれると思う。

けど、こうした能力って、実は、ごく普通に生活していたら、誰だって開発しうるはずなのに、常識やらマナーやらがその行く手を阻んでいる。(無視すればいいだけなんだけれど)

例えば、ゴミは、投げずに、きちんと捨てなさい、とか。

天気予報を見ずに、傘を持参せず、土砂降りの雨が降った場合、「ほら見たことか」的な台詞を教師や同級生に言われたり、さ。

よくわからない。常識から外れたところで、実は、誰も、そんなに困っていないのに。

本当に、土砂降りの雨なら、先生は、こういえばいいのだ。「今日は、すごい雨だねえ。自力で帰るのが無理だったら、学校に泊まってってもいいんだよ」

小学校には、家庭科室があるし、宿直室があるし、ごくごく余裕で、小学生の10人や20人宿泊可能なはずなのだ。

近所のスーパーから食材を買ってきて、みんなで家庭科の課外授業を始めてもいいと思うよ。

(僕の中に、なぜか知らないけれど、学校って場所は、いざとなったら、子供達が(自由に)宿泊可能な場所じゃなきゃダメだ、って気持ちがある。しかも、そのいざとなったらってのが、実は、一月に一回とか、そのくらい割合頻繁に発生してもいいだろう、と思っている。)

毎日毎日、一メートル先のゴミ箱に、ゴミを投げ捨てていれば、そのうち、二メートル先のゴミ箱にも投入できるように、なるかもしれない。二メートルの次は、三メートル。正直な話、バスケット選手が、ボールをゴールするのと、ものぐさ青年がゴミ箱にみかんの皮を投げるのって、まあ、違うといえば、全然違うのだが、同じといえば、同じ面もあるのだ。一方を、一方的に排斥するのは、どうなのかしらん?

天気予報って、本当によく外れる。しかも、おそらくなのだが、天気予報の的中精度ってこの先、格段に上がることはないように思う。が、一方、毎日、空模様を眺め、数時間後、半日後、一日後の天気を予報していけば、次第次第に、天気予報をしのぐ的中確率を誇るようになると思うのだ。理由は簡単だ。天気予報はとてもつもなく広い範囲の予報を行う。が、僕らが、地上から空を見上げ、雨降る降らないを言い当てる際、自分の生活圏内の話だけで済むのである。せいぜい、半径四キロ県内くらいだろうか。また、天気予報が、いわゆる、過去の天気図頼りなのに対し、僕らは、例えば、鳥の鳴き声だったり、空気の湿り気だったり、雲の薄さだったり、鱗雲とかそういう雲の種類だったりいろんな判断材料があるのである。これまでになかった判断材料を創出してもいい。

もちろん、守ったほうがいい常識やマナーもあるとは思う。例えば、睡眠時間はしっかりとったほうがいいよ、という常識。一日三時間睡眠で平気、という人はいるし、それは素晴らしい能力だとは思うのだが、真似して真似れるものじゃない。

ちょっと大げさな言い方かもしれないけれど、例えば、子供にゴミはきちんと捨てなさい、とか、出かける前は、天気予報を確認しなさい、って言うのって、見方によっては、子供の可能性を制限する、一種の虐待なんじゃないかな、とも思う。もちろん、虐待としては、程度は低いし、子供の側も、そう言う親に対して、寛容に接したほうがいいとは思う。

今日、僕は、文章を書きたいから、文章を書いているわけだけれど、(自己実現だね)道にも、もっと、のほほんとした文章も書きたいなあ、と思えてきた。

自分が、頭の中で考えている、「それっておかしいんじゃないの」ってモヤモヤを言語化して、それこそ、AZまでまとめて、ブリタニカ大百科みたいに、俺のモヤモヤ大百科を作りたいんだけれど、(後人が参照しやすいように)けど、その反面、めんどくせい、もっと、のほほんとした、物を書きたいよ、と思ったりする。最後、蛇足であった。