こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

節約の可能性(ですます調)

何を書こうと思ったのだっけ。忘れてしまった。

ああ、そうだ。節約と行政について。

僕が節約について掘り下げて考えて行きたいのは、1)節約って思考が、身近で親しいやすいから。2)節約って発想は、実は、僕たちが普段想定している以上に射程が広く汎用性応用性が高いから、という二点の理由による。

身近な言葉ってところがまずいい。1)思考を深めやすいし、2)試行錯誤しやすいから。例えば、家庭電力をテーマにした場合、「家庭電力の消費を抑えるにはどすればいいか?」って命題が思い浮かぶ。すると、解決策というか、改善策が次から次へと思いつく。例えば、不要は証明器具を取り外してみよう、とか、普段あまり使わない二階の電源はブレーカーごと落としてしまおう、とか。あくまで、即席で思いついた例だが、そういう工夫の方法がすぐに思いつく。そして、思いついたことは、その気になれば、すぐに実行出来る。さっきの例なら、電球を取り外したり、ブレーカーを落としたりすればいい。でもって、3)試行錯誤の結果がすぐにわかる、というのも、身近な概念の良いところだ。さっきの例でも、次の月とか翌々月には、電気供給量やら電気代金やらが判明するわけです。さらに4)結果、どんどん技術や経験値が身につく、という点も良い。試行錯誤後、記憶が薄れないうちに結果が判明するのであるから、さらに問題点改善点が判明するはずです。これは便利。どんどん高度でなおかつ普遍的な方法論を編み出していけるだろう。

で、冒頭に掲げた節約を掘り下げたい理由の二つめである。節約という概念は、人々が思っている以上に射程が長く、汎用性応用性が高いという話。具体的には、行政への応用が可能でないか、と思っています。要は、節約って概念を昇華(消化)させれば、行政が様々なサービスを運営する上で、不要な経費をバンバン削っていけるのではないか、と。

例えば、僕が暮らす地域では、月に二誌、市が発行する小新聞みたいなものが配られます。けど、この小新聞配達、果たして必要なのか?と、僕は疑問に感じてしまう。理由として、僕自身は、その小新聞を一切読んでいないからである。もちろん、読む人もいる。知り合いの女性は、欠かさず読んでいるそうである。まあ、市政についても書かれているし、真面目なんだなあ、とおもう。ただ、そこに書かれていることって、その気になれば、いつでも調べられることだったりする。市の福祉センターでの今月の催し物、カルチャーセンターの案内、市議会の議事録、どれをとっても、それぞれ興味関心がある人が、それぞれの判断で取り寄せればいいのではないか、と思ったりするのだ。市議会について興味関心がある人は、各自議事録をネットで閲覧したり、公共施設に取りに行ったりしたらいい。もちろん、このようなことを書くと、「市議会議員選挙や市長選挙に投票する市民は、全員市議会議事録を確認すべきだ。ゆえに、市議会議事録を公費を使って配達すべきだ」って意見もあると思う。けど、僕は反対に、自力で市議会議事録を手に入れることさえしない人間は、市政投票する必要ないだろう、とも思うのだ。(ちなみに、僕の意見に従えば、僕自身、市政投票に参加する必要のない人間である。)政治投票って、勉強した人だけが自由意志で行えば良いのではなかろうか、と漠然と考えている。(それは、勉強していない奴から投票権を剥奪せよってこと、ではない。人々は、自由意志で勉強したり勉強しなかったりしたらいいのだ。例えば、今年は市政に興味が湧いてきたから、勉強して投票しようかなあ、という年がある反面、ちょっと今年は他のことに興味が湧いたから、市政について一切時間を咲かず、他の、人たちの投票に任せようかな、とその時々で、勉強したりしなかったり、投票したりしなかったりをランダムに繰り返せばいいと思っている。)

実は、学校って無駄な経費をかけまくっている気がする。僕の世代からだと思うのだが、不登校がポピュラーになった。子供の立場からすれば、学校は選択の対象である。で、学校を選ばない子がいても良い、だろう、と僕は思う(その際、学校以外に子供達の行き場を確保する必要があるけど)。となると、教員とか、敷地スペースとか、っていまほどいらない、のではないだろうか。節約しようと思えば、節約できるのだ。学校って。

図書館もそうだ。(一応言っておくと僕は図書館が好きだ。)本好きでなおかつ図書館をよく利用する人は、「自分で本を買うと金がかかるけど、図書館に頼むとただで読めていいのよね」という言う。けど、本当にそれでいいのかな?と僕は感じる。その逆の発想で行きたい。僕は。「この間買った本が、本当に面白くて価値があるから、ついつい図書館に寄付しちゃったんだよね。これで図書館の蔵書も増えて、この地域の文化も豊かになるね」みたいな、発想で行きたい。図書館を市が運営するのでなく、市と市民とが共同で運営する場所にしたい。図書館が、お金がなくて本が買えない、と漏らしたら、どこからともなく中島佑馬さんみたいな人が現れて、どさっと貴重な蔵書を寄贈する、そう言う社会になれば、おそらく、図書館の運営費も、そんなにかからないだろう。寄贈する側も、自分で蔵書の管理を行えば、収納スペースが必要になるが、図書館なら不要なのだ。双方に、メリットが見込める。図書館としては、迷子猫掲示板みたいな形で、「今、こんな本欲しいのでください」って掲示をネットで一覧にするといいんじゃないかな、と思う(もうすでに、行なっていそうだけど)。

美術館や博物館において、学芸員は必要だろうか?いや、居た方がいいんだけど、もっと近隣住民の人が、「ボランティア学芸員兼利用者」みたいな形で、学芸員の仕事をしつつも、展示室に無料で好きなだけ入りびたれるシステムとかってできたらなあ、って思ったりする。そのためには、週四十時間も金のための労働に捧げる社会システムを改善する必要がある。週十五、六時間の労働で、普通に暮らせる世界になれば、問題なく、「ボランティア学芸員兼利用者」システムが動かせるだろうと思う。

例えば、今より、もっと、みんなが車を使わなくなったら、きっと、いまほどたくさんのアスファルトの道路は必要なくなるだろう。車って本当に必要なの?道端で満ちゆく車を観察してると、びっくりすることがある。ほとんどの車が、一人乗りだったり二人乗りだったりするのです。一般的な乗用車って最大5人乗れる設計のはずである。なのに、なんでわざわざそんなでかい車使って、たった一人の人間を移動させているのだろう。変だなあ、と思う。もっといえば、近所のスーパーやコンビニへ行くのに、車が必要だろうか?歩きや自転車だと荷物を持ち帰るのが大変、と言う意見が聞こえそうだが、歩きの場合は、台車を使えばいいし、自転車って結構楽チンだ。

車の利用に関して、おそらく、みんな盲目になっている。車があるから車を使っている状態なのだ、と思う。いっそ、車を捨てて、全て徒歩の生活に変えて見ても、きっと、誰も死なないと思う。本当に、必要を感じたときだけ、車を使えばいい。その場合、一次的なレンタルだったり、複数人での共用だったり、タクシーだったり、ミニトラックを運転手ごと借りるとかそう言う手段もある。

で、そう言う風に考えていくと、この世界に車って現時点の十分の一くらいでいいんじゃないかなあ、と思う。すると、アスファルトの道路も、現在の十分の一くらいでいいことになる。(ここで言っている十分の一ってのは、特に何か根拠があるわけではなく、僕の勘ですが。)

高校無償化も無駄です。高校なんて行かなくていいんだから、高卒認定資格試験の受験料を無料にすることと、検定教科書を完全に無料にすることと、検定外教科書の一部も未成年に限り無料にすれば良い、それだけである。

もちろん、このように、多数の無駄っぽいものを排除していくと、それなりの失業者が出てくる。が、失業したっていいじゃないか、と僕は思う。少なくとも、ここは日本である。失業したら失業保険が入手できるし、失業中なかなか新しい仕事が見つからなくても、生活保護を申請したらいい。そもそも、無駄を削減したから大量の失業者が発生するわけで、削減した無駄分からいくらか生活保護費に回せば、十分に黒字収支になるはずだ。

余裕って確かに必要だ。人員の余裕、設備の余裕。などなど。だから、そう言う余裕を減らす形の、カツカツした節約には、僕は反対する。が、もっと、根本的な、そもそもこれって不要だよねって、ものをバッサリ切ってしまうタイプの節約は、どしどしやればいいのにな、と思う。

僕は政治には疎い、ビジネスも興味がないからやらない、なので、実務的なことはよくわからないのだが、大筋、意味のある意見なんじゃないかなあ、と思う。少なくとも、叩き台にはなりうる。

 

そういえば、途中書き忘れたが、病院と薬局も、基本的にいらないんじゃないかなあ、とおもう。歯医者などがもろにそうで、要は、市民一人一人が、歯磨きスキルに熟達すれば、歯医者さんは、いまほど必要なくなる、と思う。病院だってそうで、風邪を引いたら、一日二日寝込んで居たら大抵治る。それこそ、病院にいくと必ず処方箋をもらうのは何故なのだろう?薬を飲まなくても自然回復する軽微な病なら、処方箋はいらないんじゃないだろうか?形成外科では、なぜ、診察のたびにレントゲン写真を取るんだろうか?半年前に診察を受けた際、すでに撮影しているじゃないか。そんな頻繁に取らなくても、触診と問診で、だいたい判断がつかないのだろうか?個人病院の数は、いまの半分くらいでいいし、薬局の数は、いまの三分の一でいい気がする。

もちろん、このようなことを書くと、「じゃあ、医師や薬剤師の大半が失業するじゃないか。せっかく、医師免許薬剤師免許を持っている彼らを他の仕事につけるなんて勿体無いじゃないか」と言う意見が予想される。が、僕は、逆だと思う。「医師免許や薬剤師免許を取得した、医薬について専門知のある彼らが、専門外の分野の仕事に取り組むから、良いのだ」要は、化学反応が起こるわけだ。例えば、形成外科医としての資格を持っている人が、福祉の現場で身体介助に携わったとする。すると彼は、彼の専門知を利用して、より安全な介助方法を見つけ、職場の同僚に教えられるわけだ。これって、本当は、素晴らしいことなんじゃないだろうか?あるいは、薬剤師が、幼稚園の先生をやる。すると、彼は(彼女でもいいけど)、薬剤師としての知識を利用して、子供達に、食べて安全なもの食べたら危険なものを伝えることができるかもしれない。これって、すごくないか?と僕は思うんです。保育の勉強を専門で修めた保育士さんも素敵だと思う。みんな優しそうだし、楽器も演奏できるし。けど、一味違う保育士さんだっていていいのだ。僕は、専門知こそ、市井に流出させてしまってオッケーなんじゃないかなあ、と思う。

もし、そんなんじゃ、高い学費が賄えない、と言うなら、自己破産すればいいだけだろう。

僕の遠い親戚に、広島大学医学部を中退したおじさん(もうおじいさん?かも)がいるそうだけれど(実は直接あったことがない)、彼は仏教にも詳しく、話がとにかく深くて面白いそうである。

とにかく、そう言う風に、無駄なものは、この世界にたくさんあるけれど、同時に、無駄なものなどこの世界には存在しないんじゃないかな、とも思うのです。

長くなりましたが、以上です。さて、休憩タイム。