僕の経済学(1)定価について

僕の経済学。

僕は、割と、経済について考えるのが好きだ。お金ってなんだろう?とか、これまで一度だって貨幣論とか、経済学を学んだことがないけど、(大学生だった頃、マクロ経済学って授業と日本経済史って授業に出席していたけど。まあ、勉強ってほどじゃない)気がつくと、あれやこれやと考えている。正直、僕の経済に関する思考は、いわゆる、経済学部的な王道ではないと思う。けど、それなりに、的をいた思考だとは思っている。

先ほど、昼寝をしながら考えていたのだが、どうして、価格って一定なのだろうか。要は、なぜ、定価が存在するのだろうか?とフット疑問に思った。具体的には、例えばAさんとBさんが同じ八百屋でかぼちゃを人使った場合、Aさんの支払った額=Bさんの支払った額でなければならないっていうのが、この社会の常識だ。でも、その常識って本当は、ただの思い込みじゃないのだろうか?と思ったのだ。

僕は、以下のような値札を想像してみた「かぼちゃ一つ、0~10000円」ゼロ円から一万円までだいぶ、値動きのある値札である。が、これで良いのではないか、というのが、僕の発想です。

実を言うと、現社会でも、同じ商品でありながら、値動きする場合がある。なんのことはない、大人料金、子供料金、学生割引、などのケースである。バス代は、子供は大人の半分の値段でいい、そう言う値動き。

これは、とても良いシステムだなあ、と思ったのだ。持ち金が少ない子供でも、バスや電車に乗りやすい。とても素敵なシステムです。(ただ、一般企業が良くやる、学生割引、カップル割引、家族割引、などは、ねずみ講っぽくて嫌いだな、と思います。お金で人々を釣って、購買意欲を書き立てていて、ずるい感じがするから。)ただ、子供が大人の半額ってのは、中途半端だ、とも思うのです。と言うのも、見ようによっては、子供は体が小さく、体重も軽いから、その分、乗車スペースが小さく済む=だから、大人より入場料が安くても良い、と言う解釈が可能だから。そう言う理屈は、ちょっと嫌だ。僕としては、子供は、お金を持っていない場合があるので、当然、格安で乗車しておっけーである、と言う論理こそ支持したい。ならば、いっそのこと、子供の乗車料は一律ゼロ円、で良いのではないか、と思うのです。

八百屋だって、そうだろう、お金がない人には安く売りたいし、お金に余裕があるなら、少し値が高くなってもいいんじゃないかな、と思う。理想は、投げ銭式。

ぶっちゃけ、子供にとっての百円と大人にとっての百円とでは、お金として価値が違うと思うのである。持ち主によってお金の価値って変動するのに、商品の価格だけ一定でいいのか。商品の売買を価値の交換と定義するなら、取引相手ごとに、価格帯を変動させなくては、価値の等価交換が成り立たないのではないか。

僕の理想は、すべての価格表示が「0~1000円」とか「1000~100000000000円」とか「0~7000000円」とか、もっといえば「100000000~+100000000円」といった具合に、振れ幅を持つことだ。不可能ではないと思う。少なくとも、個人レベルでは可能だろう。もちろん、はじめは低額で交換するが徐々に徐々に値上げしていくとか、そう言うせこい話じゃない。

こうした定価の廃止、価格の自由化は、現状の資本主義を超える力があるように思う。細かく詰めていけば、資本主義は進化するかもしれない。

もっといえば、様々な価格で購入できる店だからこそ、様々な人が(子供から大人まで、おじいちゃん、おばあちゃん、外国人、それこそ、これまで買い物と無縁だった人まで)そのお店に集まりうるわけです。これは一つの可能性だと思う。多様性を産む、原動力になり得る発想だと思う。ゼロ円で購入してもいいから、お金のない人も買いに来る、逆に、百万円出してもいいから、お金のある人もやって来る、いっそ、外国の通貨でもいい、としてしまえばなんらかの事情で日本円を所持していない人もやって来る。

定価という概念は、時代遅れだな、と思うのです。

 

 

本文とは関係ないのですが、この記事をもちまして、僕が本日生産した文字は、「20150字」を超えたことになる。四百字詰原稿用紙にして、50枚超です。実は、一日で、50枚書くって気持ちで、本日ブログの文章を書いていました。文句なしに、嬉しい、ですね。目標って、その日のうちにかなってしまうのだな、って当たり前の事実に感動しています。その気になれば、一日1000枚kくらい書けそうです。