カラスのいいところ+α

カラスのいいところって、沢山ある。実益を得ることもあれば、精神的に支えになってくれることもある。けど、一方で、カラスのことを一方的に嫌う傾向が人々にはある。それはいわば、親から子へと受け継がれた、常識のようなものだ。常識ってのは、疑ってかかったほうがいい、と僕は思う。というのも、常識というのは、通常、無思考で受け入れられてきたものだからだ。見方を変えたり、あるいは、環境が変われば、常識が通用しない場合だって多い。カラスについてだって、そうだ、と僕は思っている。カラスにはいいところが沢山ある。

・朝、ちょうどいい時間に起こしてくれる。

僕は、この頃、朝は、カラスに起こしてもらうようにしている。どういうことか、というと、カラスの鳴き声で目がさめる、ということである。カラスを含め鳥たちって、大抵日の出に前後して鳴き始める。すると、だいたい日の出前後に起こしてくれるわけである。日の出前後に目覚めていいところは、外がそこそこ明るいということ。はじめのうちこそ薄暗いが、それでも、電気などつけなくても、カーテンを開ければ、部屋の中くらい見渡せる。また、日の出前後って、近隣の人がまだ眠っていることも多く、静かで落ち着くのだ。また、一度、聴き比べて欲しいのだが、目覚まし時計のアラーム音と、カラスを含めたの鳥たちの鳴き声、どちらが心地よいだろうか。アラームってようは、警告って意味だ。鳥たちも警告音を発する事はあるが、朝っぱらから、そういう声で鳴くことは稀である。僕の率直な感想としては、鳥の鳴き声で目覚めたほうが、スムーズに起床できる。もっといえば、気持ちよく、朝だなあ、と思える。

・食べられる(かもしれない)木の実を教えてくれる。

近隣の樹木に大量のカラスが集まってくることがある。何をしているのかな、と眺めていると、その樹木に成った木の実が、食べごろのようである。みんないそいそと啄ばんでいる。実は、僕は、その木のことを一切知らない、名前も知らないのだが、試しに、地上に落ちていた木の実を食べてみた。コリコリとした食感で、落花生を殻ごと食べている感じがした。表面の硬い空を向いてみると、中から白い子房が顔を出した。その子房だけ舐めとってみると、ほとんど味がないのだが、冬場凝固したココナッツオイルのような食感がした。いちいち殻を剥くのが面倒なのと、木の実自体小さいので、満腹するには大量に食べなくちゃならないって点で、常食には向かないが、木の実自体は食べられそうだった。カラスの味覚=人間の味覚というわけではないだろうし、カラスにとって食料になるものが、人間にとって毒になる場合、あるいは、その逆もありうるとは思うのだが、野外にて、何か食べ物を探す際に、カラスたちの行動が参考になるな、とは思っている。

・コミュニケーションが取れる。

意外とカラスたちは、人間のことを見ている。彼らの巣の真下を通ると、「ガアガア」と警告(?)してくるし、たまにあとをつけてくることもあるし、見つめれば見返してくる。また、割と平和的である。少なくとも、滅多なことで人間は襲わない。確かに彼らも雑食性なので、餌だ、と認識されるとやばいのかもしれないが、通常、カラスは、人間に対し、友好というか、少なくとも攻撃的そぶりをほぼ見せない。そういう平和主義的なところも、いいな、と感じる。

好き嫌い、というのは、人それぞれの個性と直結している。だから、強制する事はできない。ただ、その好き嫌いってかなりの確率で、根拠がない。ただ、親が学校から刷り込まれた常識的判断に過ぎない場合が多い。常識というのは、疑えば簡単に崩れてしまうもので、つまり、常識を盲信していても、常識が通用しない事態は発生しうる。そもそも、常識って格好悪い。「そろそろ俺も二十八だから、結婚しなきゃなあ」とかそういう話は、聞いていても、だからなんなのだ、という気持ちにさせられる。

常識には、以下のような構造がある(ような気がする)。無関係の事柄を、あたかも関係付けているという構造。ABとは、実は完全に独立した事象なのに、あるいは、独立した事象として取扱うるのに、AならばBといった風に、ABとを不可分に扱おうとする、それが常識だと、思う。例えば、結婚したなら、結婚式をあげなければならない、というのも常識でAならばB方式である。結婚したからといって結婚式をあげなくてもいいし、また、結婚してなくても結婚式をあげてもいい。楽しそうである、人が集まるか走らないけれど、パーティ会場を借りて、みんなでおめかしして集まって親交を深めるのである。アリだなあ、と思う、年に一回くらい結婚式(結婚してないのに)挙げるのって。めでたい感じがする。

もちろん、この世の全ては、実は、独立事象だろう、と思う。となると、この社会を規定している、法律だとか関係性だとかも、すべて実は、常識的な思い込みに過ぎないってことになる。それら常識的思い込みを全て破壊したら、きっと、社会はカオスになる。

なので、僕は、「気楽」ってキーワードを、ひとまず掲げている。「気楽」になるためなら、常識は破壊してもオッケー、でも、この常識を破壊したところで「気楽」にならない、それどころか、却って疲れる、ならその常識はこれまで通り活用して行こう、という考えです。

よくある折衷案だけれど、この発想ってなかなか面白い。そもそも、人間という生物が、こうした発想に至れるから、法律なるものが成立しうるのだ。法律だって、明文化された常識に過ぎないわけなんだから。ある常識を選択的に採用するってことは、他の常識を部分的に否定することにもつながる。特に、法律のような巨大な体系を築こうと思ったら、その体型からはみ出す常識ってたくさんあるはずだ。となると、法律体系の制定は、常識の制定であると同時に、他のいくつかの常識を破壊する、あるいは、無視する行為なのかなあ、とも思えてくる。

もともと、カラスについて書こうと思っていただけなのだけれど、思考が法学へ興味を持ち始めた。法律って仏教の悟りとも接合しうる概念のようだ。特定の学問だけ(例えば経済学とか)修めることの馬鹿馬鹿しさを感じている。自由連想で思考を深めていけば、あらゆる学問とつながるようだ。