こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

拷問と宿題の類似性について

以下に述べることに、特に根拠はないです。以下、昨日、ふっと思いついた僕の宿題についての認識。

昨日、ふっと、宿題って拷問だ、と思いついた。

いや、拷問と宿題って全然違うだろう、とも思うのだが、宿題と拷問、この両者の間には、その形式、その効用両面で類似性があるように思ったのだ。ちなみに、ここでいう宿題とは、小学校や中学校や高校の宿題を想定している。その他にも僕は経験していないのだけれど、大学や会社での宿題も同類かもしれない。

まず、より拷問っぽい例から入ろう。例えば、反省文。あるいは、特別課題。昔、知り合いに聞いたのだが、本来なら高校卒業できないところを、日本国憲法を三回書き写す課題をこなすことで特別に卒業できたって話があるそうだ。何か、その学校的に悪いことをして、その反省文を書く際、もしかしたら、学生は本当は反省していないのに、反省することを強制されているかもしれない。意に反することを長時間強制的行わせ、結果、服従させる。拷問だって、まあ、程度は全然違うんだけれど、要は、人間が生理的に嫌なことを繰り返し繰り返しなんどもなんども体験させ、相手を服従させる行為と見ることができるだろう。大枠でみれば、反省文を書かせる、ペナルティ課題を課せるって、もし、当の学生がいやいややっていたなら、拷問っぽい感じがする。そもそも、罰則と拷問は目的と形式において類似している。もちろん、程度の違いははるかに大きい。

例えば、数学の宿題でひたすら因数分解させる、や、ひたすら百ます計算をさせるなど。正直、生徒が楽しんでやっていたらそれでいいのだが、生徒の気持ち次第では拷問になりうるな、と思う。拷問とは、なんらかの強制的な作用を被拷問者に与えることで、望ましい結果(自白とか)を引き出す一連の行為である、と思う。教師が、生徒に、ひたすら数学の問題を解かせることで、生徒は数学のテストでそれなりの点を取るという結果を教師に与える。もし、生徒が、教師の与える宿題をいやいや行なっていたなら、それって拷問とおんなじ形式じゃないか。しかも、僕は、十五、六歳だった頃、駅のホームなどで、準進学校の生徒たちが、数学の宿題の多さをぼやいたのを聞いた。

ただ、もしかしたら、「宿題を行うことで生徒たちが成長している。生徒たちのためになっている、という点で拷問とは違うじゃないか」という意見もあるかもしれない。でも、同時に、拷問を経て、自白することで、減刑された、拷問された側にとっていいことじゃないか、みたいな主張だってありうるのだ。また、宿題をこなすこと=生徒の成長、生徒のためになる、とは必ずしも限らない。宿題をただ淡々とこなした結果、自分で課題を見つけにくくなるかもしれない(ならないかもしれない)。人間万事塞翁が馬、どう転ぶかなんてわからないのだから、利益を論じても無意味だと思う。

もちろん、今回の宿題=(軽微の)拷問説は、やや苦しい主張だと、自覚している。でも、僕としては、拷問って、例外的な世界で起こっている事じゃないかもしれない、ってことを考えたかった。児童虐待って拷問だし、いじめもまあ、拷問かもしれない、ハラスメントも拷問かもしれない。もちろん逆に、拷問ってハラスメントだよね、って考えもできる。正直、僕自身、知らず識らずのうちに、拷問的なことを行っているかもしれない。

書きながら感じているのだけれど、拷問って身近なんだな、と思う。何が正解なのかわからないけれど、拷問って嫌いだ。拷問的な要素がまるでない生活の場としての教育が実現すればいい。