こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

日記 

文章を書くって、どういうことなんだろう。

この頃、と言っても、ここ数日の話だけれど、ブログの文章を書く時間を設けるようにしている。とにかく、たくさんの文章を書こう。具体的に目指している地点はないのだけれど、とにかく文章を書くことで新しい場所へ行きたい、と思っている。よくある成長願望なのかもしれない。特定の行為や修行を行うことで、いまとは違う自分になれる気がするという願望、とでもいうのか。

ただ、まだまだ書きたいこと、改めて考えを深めたいこと、はあるのだが、だいたい書きたいことは書いてしまったかな、という思いもある。僕がここ数日書いたことをまとめると、きっとそれは、学校教育への批判、シンプルな生活への志向、豊かな人間関係への志向、この三点なのかなあ、と思う。現状の経済システムへの不満もあるが、先の三点を満たすための補助的な視点という風がある。

で、ある程度文章を書いてみて思ったのだが、主要な主張や視点って、最初の二、三記事である程度出してしまえている。もちろん、言葉足らずだったり、かなり限定された内容だったりはするのだが、この観点から推論していけば、残りの僕の主張もだいたい読み解けるだろう、という内容である。

そのような思いがあるからか、これ以上何か付け加えることもあるのかな、という気持ちがわきつつある。一言で言えば、倦怠期、なのかもしれない。まだまだ、書き足らないし、考えたいことはあるのだが、同時に、いまの自分では、何か足りない。自分自身の経験とか、考えの深さとか。人間関係について語る際、やはり、豊かな人間関係の中で語った方がいい。

あと、怒りって感情から、完全に離れて、文章を書きたい。いま、なんかは、割とニュートラルな感情で、別に、怒っても悲しんでもいないのだけれど、例えば、学校制度について批判的な文章を書く際、僕は、過去の体験を脳裏に蘇らせて、少し怒っている。悲しかったりもする。感情が沸き起こった方が情緒的な文章になるかもしれない。けど、本来は、怒るようなことでもないのだ、とも思う。現状の学校制度に、一切の根拠がなく、いくらでも改善できるように、僕の怒りにも、やっぱり根拠ってない。怒らなくても、文章は書ける、とでもいうのか。

僕が、いま、文章を書いていて、どうにも退屈を覚えるのは、文章を書かなくちゃいけない、って気持ちになっているからか。実をうと、とある人のことを意識している。その人は、原稿用紙換算だと思うのだが、一日50枚くらい各層である。要は、二万字。僕も、そのくらい書かなくちゃ、みたいな他者と比較する意識があって、それで書いている。

でも、うちから湧き出るものがない。この文章は、ひとまず、書き上げて、でも、ブログには上げないでおこう。なぜならば、伝えたいって気持ちがないからだ。日記に近いのかな、と思いながら、体験が抜けている。

伝えたい、って気持ちはどこから、何から生まれるのだろうか。体験の積み重ねから、だろうか、それとも、知識、からだろうか、それとも、思考?何か、これまでにない体験をしたら、伝えたいと思う。これまでにない知識、あるいは思考が結実したら、伝えたいと思う。書くことそれ自体は、体験や知識や思考ではないのだろうか。書くことが体験になるのは、書き終わって、しばらく、経ってからの事であろうか。一年くらいして、あの時は、って振り返った時、体験になって、そして伝えたいことが生まれてくる。

となると、体験は振り返った時生まれるってわけなのか。いや、でも、僕は子供の時、ずっとずっと学校で嫌だなあ、って気持ちがあって、それを伝えたかった。当事者でありながら、伝えたい、と思っていたし、まあ、暴れる、などと言った手段で伝えていた。

思考を言語化するって一種の研究だ。ここでいう研究とは、自分を見つめる、とか、心や思考を見つめるってことだろうか。どんな文章であれ、文章になるってことは、その先駆として思考や心があるわけで、その思考や心を見つめる働きが文章を書くってことにはある。

とはいえ、新しい経験、新しい知識が必要な時期にきたのだろう。そして、吸収の時期を過ごした後で、また思う存分書き始めようか。