こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

日記 仕事体験記と僕の仕事観(あくまで個人の見解)

昨日、新しい仕事先へ行き、そして働いて、帰って来て、ちょっと泣いて、さて寝ようと横になって、ふっと「お世話なんて嫌だよ」って思った。

新しい仕事は、辞めるつもりである。ホテルの仕事であった。ホテルっていうか、結婚式とか大規模のディナーなどのセッティングや配膳などの仕事だった。思っていた以上に力仕事であった。椅子を並べたり、机を持ち上げたり、ただ、まあ、力仕事に関しては、別に構わないのだ。数日も通えば慣れるからだ。でも、精神的な攻撃を始終受けるような職場だった。人を責めることしかなしない職場だった。それが、普通だよ、って意見もあると思うのだけれど、僕は、少なくとも自分自身は他者を責めたいと思わない。もしかしたら、理解が浅い(というのも書籍と1組のDVD教材で学んだのみだからだ。直接苫米地博士から学んだわけじゃないと、但し書きをつけておく。)かもしれないけれど、他者をひたすら責めた命令を下すという行為は、エフィカシーを下げるだろう、と感じるのだ。エフィカシーとは自己能力の自己評価のことだそうだ。自分には、こんな能力があるぞ、って評価のこと。僕自身は、苫米地さんの本で学んで来たから、エフィカシーを下げないですんだ、それどころか、エフィカシーをあげることができた。でも、周り、特に女性陣の中には、不安そうに眉根を寄せている子もいた。「大丈夫、大丈夫」って言ったら、笑ってくれて嬉しかった。男の子の中にも、僕以上に素直な子がいて、変な言い方になるけれど、可愛らしかった。一方的に責められるたびに、眉間にしわを寄せ、しかも、周りに人がいないときを見計らって、僕にボソッと「やってらんねえっすよね」とつぶやくのだ。僕も、「(厳しい職場だって聞いてたけど)ここまでなんだってびっくりした」「正直、次から来ないかもね」と返すと、笑って返してくれた。嬉しかった。ちょっと脱線するけれど、そのほか、いい人もいた。決して、人を責めず、淡々と仕事やりまくる人、アドバイスをくれる人、素敵な人と出会えてよかったなあ、と思う。この大ホテルでの仕事は辞めにして新しい仕事をこれから探していくわけだけれど。で、話が戻るけれど。

責めたり命じたりする場合、もちろん、どのような文脈であるか、にもよる、と思う。必要な注意点だってあると思う。けど、命令系統はバラバラで、Aさんの指示で行動していたら、いきなりBさんから、「んなことやるなよ」みたいなことを言われる筋合いはない。困っている人を見たら、助けたい、と思うのが、僕のスタンスで、でも、その職場では、困っている人がいたら、とりあえず、責める、というスタンスだった。考え方は人それぞれなのだろう。だから、僕は僕の考えに合わない場所だったから、辞めることにした。こんな風に、自分の考え方を尊重し続けた結果、どうなるのかは、知らない。ただ、まあ、少なくとも、僕が前務めていた職場は、今回の職場より穏やかだったわけだ。となると、昨日働いたホテルより、もっといい職場ってこの世の中にきちんと存在しているはずなのだ。

以下、僕の持論のようなものを、今回の体験と絡めながら書こうと思う。母親と、よくこの話題に触れるのだが、母自身は、僕の考えには難色のようだ。そういう人もいるって知る機会が身近にあるのは、幸いだ。偏執的に、自分の正義を振り回さずに済む。なので、以下の考えも、単に反社会的若造の意見ではなく、そういう考え方もあるんだなあ、という甘い受容性で以って、見つめてほしい。

僕は、この社会を構成する大半の仕事は、不要なんじゃないかなあ、と思っている。少なくとも、みんなが(僕自身も含めて)、もっと自立して、自分自身で生活を営めるようになれば、この社会の大半の仕事は不要になる。例えばの話、現在銀葉や郵便局などに、貯金していても、大した利率などもらえない。となると、もし、僕たち一人一人がお金を管理する術を覚えたら、少なくとも、貯金するための機能は、不要になるわけだ。もちろん、送金だったり引き落としだったりと言った機能は便利だから、残るだろうけど。もっと、身近な例で言えば、コンビニや駄菓子屋さんやファーストフード、みんながもっと、自分が食べたいものを自分でちゃちゃっと作れるようになったら、それで済むのだ(コンビニには飲食物の販売以外にも、様々な働きがあるけど、少なくとも飲食物の販売機能は、あまりいらないだろう。というのも、そこで売られているのは、化学調味料を多用したもしかしたら体に害があるかもしれない食物だから。化学調味料が含まれていても、っ便利だからいいじゃないか、って意見もあるんだろうけど。)。特に、駄菓子っているのかなあ、と思っている。読んで字の通り、駄目な菓子である。そんなもの子供に売るなよ、と思う。親も、もっといいもの食べさせろよ、と思う。別に、高級菓子を食べさせろってわけじゃない。そもそも、高級だからっていい菓子とは限らない。ただ、ブランド戦略が上手いだけかもしれない。要は、菓子など手作りして仕舞えば済む話なのだ。親や子供自身が、お菓子を手作りできるようになれば、駄菓子屋やなんていらない。潰れてしまっていい。

僕の理想は、いらない仕事どんどん無くして、みんなが働くなることだ。正確には、働く時間が短くなる社会だ。必要な仕事が少なくて、人口だけ余ってしまうなら、必要な仕事を働ける人たちで分け合えたらいいのになあ、と思うのだ。それって社会主義じゃん、って思われるかもしれないけれど、社会主義の場合、仕事が均等に割り振られる。僕の理想は、みんなで協力して必要な仕事を分け合うって感じ。それは理想論。でも、理想の社会で、僕は生きたい。

ちょっと説明がごちゃついた気がするので、(例がスマートじゃなかったな)、まとめると、僕の認識としては、この社会には、いらない仕事がたくさんある。そんな仕事はさっさと潰してしまえ。で、余った労働人口で、必要な仕事をみんなで気楽にこなして行きたい。

ちなみに、どうやって、いらない仕事を潰すのか、といえば、それは、マハトマ・ガンディーに影響を受けている。不買運動を変形させたものだ。「こんな仕事社会の役に立たない、いらない」と思った仕事から離職するという方法で実現可能なはずだ。働き手がいなくなれば、仕事なんて成り立たない。

僕は、昨日、ホテルで働き、こんな仕事いらない、って勝手ながら思った。そもそも、ホテルとか旅館とかって、ホスピタリティだのもてなしだのお世話だのコンシェルジュだのそういうわけのわからない概念が付いて回る。僕は、そういうの全くよくわからない。昨日の宴会でも、そうだ。お客さんたちがやっていることは、酒をガブガブ飲み、食い切れない飯を注文し、結果牛さんや豚さんや鳥さんの死体を残し、帰って行く。その背後には、アルバイトを中心に、ストレスフルなホテル業がある。みんなが、同僚が困っている様を、ひたすら責める現場がある。そんなことまでして、よくわからない儀式(結婚式とか)いるのかなあ、っておもった。誰かと仲良くなりたいなら、どこか公園の片隅で話し合ってみたり、すれば、いいだけなんじゃないのかなあ。誰かの苦労が「お世話」や「おもてなし」ってことなら、僕は、そんなもの受けたくないよ。

もちろん、僕の現生活でも、そういうお世話はたくさん被っている。本当にありがたい。でも、少しずつ減らしていこうと思っている。例えば、僕は、ミネラルウォーターを飲んでいるのだが、自分で運ぶと重いので、運送会社さんに家まで運んでもらっていた。でも、これってなんだか、おかしい、自分で飲む水なのに、人に運んでもらうなんて。だから、僕は、これからは近所ドラッグストアで買ってカバンに背負って自宅まで運ぼうと思う。マハトマ・ガンディーの塩の行進に習うなら、湧き水出てるところまであるい

もちろん、「お世話」って言っていいのかわからないけれど、何かしらかの「支援」が必要な場面ってある。例えば、下半身付随になってしまったとか、でも、その場合は、やはり支援であってホテル的な「おもてなし」ではないだろう。

僕は、「お客様は神様です」って発想は、ナンセンスだから、そろそろやめたほうが社会のためだと思う。もし、日本以外の全世界で、そのような思想が広まっていたとしても、僕たちがその思想に染まる必要ってないじゃないか、とも。本居宣長的な神様観にしろ、一神教的な神にしろ、お客様=神ではないだろう。そんな当たり前のこと、どうして誰も気がつかない。お客様は、人間だ。

誰かの犠牲の上に、どんちゃん騒ぎして、そして生命(豚さんや牛さんや鳥さんや魚さんの生命)を無駄に消費する。世の中にパーティ的なものが存在する理由が、よくわからない。懇親会、ならば、誰かの家でやったり、まあ、いろんな方法があるのに。

さて、おき、僕はこれからどうしようか。ひとまず、飯は食いたい。で、そのあと、台風がひどくなさそうなら、ハローワークで失業保険の申請をしなくちゃ。書類足りてるかな。失業保険ってどのくらい続くのだろう。そういえば、さっきこの文章を書きながら、Wikipediaでガンディーを調べた際、彼は糸車を所有しており、「毎日これで糸を紡ぎ「働かない日に食べるパンは、盗んだパンである」という信条を実践した(Wikipediaからの引用)」そうである。僕も、たとえお金にならないとしても、今日一日何か働きたい。ゴミ拾い、でもしようかな。ハローワークで新しい仕事を探そう。

僕の中で暗い気持ちと明るい気持ちが同居している。僕に貴重な体験を与えてくれて、どうもありがとう。昨日の職場。