仕事と自立

僕の中に、こんな定理というかテーゼがある。

もし、みんながみんが自分のことを自分できちんとできるようになったら、今、この世界にはびこっている仕事の大半が(九十九パーセントが)なくなるだろう。

もちろん、前提からして、理想状態である。が、思考実験して欲しい。このテーゼ、なかなかに妥当性があるだろう。

例えば、もし、受験生が自分の勉強を自主的に行えたなら、予備校や塾や要らなくなる。学校だって要らなくなるかもしれない。もし、主婦が自分が食べる食材を自分で手に入れられるようになれば、スーパーはいらなくなる。僕は、そういう発想を述べている。

もちろん、例えば、赤ん坊や何かしらかの障がいを負われた方などは、全てを全て自分でできるとは限らない。だから、そこに、仕事は発生する。母親が赤ん坊に母乳を与える、とか、身体にハンディがある人をベッドから車椅子へ移す仕事、とか。そういう仕事は、必要だし、バンバンあっていいのだ。と思う。

でも、もし、多くの人たちが自力でできる事柄ならば、それは仕事として成り立たなくてもいいよ。

僕が昔書いた文章に、こういうものがある。うろ覚えで再現する。「全てには消費期限がある。納豆、精肉。生卵。例えば、愛って概念に立って、経済って概念にだって消費期限があるだろう。例えば、人類が死滅したときとか。」まあ、そんなことを、もっと長々と書いた気がする。この全てに消費期限があるって発想は、なかなかクールだと思う。「消費」期限ってところがちょっとネックだが、言わんとしている事は伝わるのではないかなあ、とおもう。全てには、耐用年数があるのだ。そして、それは概念にだってある。愛って概念。経済って概念。仕事って概念。僕は、そういうことを主張したい。そして、代わりになるものを構築して行きたい。

別に、難しい話ではない、と思う。うまく説明できるかわからないのだが、丸山圭三郎さんのソシュール解説で、風船の例を出しているのだが、そのイメージが参考になる。その例とは、(かなり、ざっくばらんな説明になるので、誤解を生むかもしれない。詳しくは、丸山さんの著作を直接参照して欲しいです。)言語ってのは、要は、箱の中に複数の風船が詰め込まれているとして、その風船一つ一つが一つの言葉なんだって説明だ。もし、その風船一つ、例えば、狐って言葉がパンと弾けてなくなったとすると、それまでチワワという風船が埋めていた空間を、ほかの例えば、犬とか狼とか言った言葉の風船が膨らんで埋めてしまうのである。そういう説明である。僕は、おそらく、耐用年数を超えた概念はただなくしてしまえばいいのだろう、と思っている。そうしたら、ほかの概念たちが成長して(風船が膨らむってのは、概念の成長なのだ(これは、あくまで僕の理解で、丸山さんの説明とは違う))、補ってくれるはずなのだ。

まあ、都合のいい妄想かもなあ、と思わないではない。

僕自身にとっても、僕自身の文章は、僕自身の思考のためのたたき台だ。書きながら考えている。事前に考えたことを書くこともあるが、そんな場合でも、途中から考え始める。このブログにしたところで、最初の数記事は、すでに僕の中で考え尽くした文章であるが、それ以降は、毎回、思考実験である。特に、ここ数日はそうである。

お金をなぜつかうのか、あるいは、お金を使うとなぜ便利なのか?という自分がやるべきことを他人にやらせることができるから、だったりする。自分がやるべきこと、なんて言葉は、ちょっと生真面目すぎるかもしれない。大げさかもなあ、と思う。正直、やるべきことなんてこの世界にはないよ、やりたいこと、やりたくないことがあるだけだよ、と思う。でも、まあ、以上のようにお金を使う理由を説明するとすれば、自分で自分のことを全部やっちまえば、お金って、そもそも要らないはずなのである。あってもいい。確かに、お金って面白いから。でも、自分でいろいろなことができるようになると、楽しいだろうなあ、と思うのです。

 

仕事をしている=自立した社会人???????

 

本当なのかな?