こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

利益の追求

利益を追求したくないなあ、と思う。時間に追われたくないから。それに、利益を追求すると、結局、自分が何を求めていたのか、途中でわからなくなるから。

この追求って言葉、使い用によって、よくもわるくもなる。利益の追求に限って言えば、何を持って利益とするかっていう定義が難しいのだが、途中で目的が曖昧になり、自分で一体何がしたいのか訳が分からなくなるのは当然の流れだろう。例えば、学力。学校の勉強して、偏差値あげるぜ、って思って、まあ、勉学に励むとき、始めのうちは、目的意識もしっかりしていて、楽しく取り組めていたのに、途中から、偏差値をあげるためだけに勉強しているようになり、結局、なんのために勉強してんだか、わからなくなったり。そういうことは、僕自身経験したし、まあ、よくあることなんじゃなかろうか。

理由がない。動機がない。というのはある一面では、とんでもなく強い。例えば、ピアノをやるさい。「コンクールに優勝したいから」とか「憧れのピアニストがいるから」とか言った理由、動機ありきでピアノを練習するより、「特に理由とか動機とかないんだけど、なぜか、毎日、気がついたらピアノを弾いている」って人の方が、きっと、上達してしまうだろう。多分、そういう人は、ピアノが好きだから、理由や動機が要らないのだろう。

利益にこだわって、自分の行動をがんじがらめにしてしまえば、きっと、理由も動機もないままに、ただただ利己的な行動を繰り返すことになるんだろう。金銭的な利益だったり、ステータスの追求だったり。そうした追求は、いろんなものを置き去りにして、例えば、焦りだったり、時間短縮の思想だったりを生む。結果、他者を否定し、傷つけたりする。うまく説明できないのだが、おそらく、自分と他者というのは、違う存在だが、似ている。自分=他者とまで言い切っていいのかわからないのだが、自分と他者とは連動しており、他者の状態と自分の状態とがそれなりに連動してんじゃないかなあ、と半分経験的に理解している。自分と他者との間には、確かに境界線があるのだが、境界線が引かれているからこそ、連動している。例えば、コピーについて考えてみる。コピーとそのコピーの元となる本物は、似ている。そりゃ、コピーな訳だから。でも、コピーは本物に内包されないし、本物もコピーに内包されない。互いに独立である。ノートとそれをコピー印刷した印刷紙を思い浮かべるといい。その両者には、まあ、紙という点では共通項にくくれるが、ノート、印刷紙の次元でみれば、明らかに別物で独立している。しかし、その内容は連動している。で、まあ、人間というのも、そうしたコピーの一種なのである。卵子精子の受精にしろ、体細胞分裂にしろ、コピーの一種だろう。ただ、子供が親のコピーだからと言って、親に従属しないのは、さっきの、ノートと印刷紙の例からもわかる。ノートと印刷紙は連動しているが、でも、同時に独立している。ちょっと話が長引いたけれど、まあ、そんな風に、自己と他者を捉えている。なので、利己的な行動に意味ってあるのかなあ、と思ったり。

じゃあ、利他的ならいいのかっていうと、結局、利益の追求って、ある特定の利益の追求になりやすい。そもそも、追求って言葉に、何か特定のジャンルに限定する印象がある。例えば、日本という国家のために、金銭的利益を追求しまくった挙句、競争原理を日本社会に普及してしまい、日本の福祉政策がボロボロになってしまうかもしれない。

利益として追求されるものは、まあ、だいたい見当がつく。1)お金。2)権力やステータス(学歴なども含む)。3)時間(生命時間も含めて)。4)健康。5)所有。だろうか。見落としもありそうだが、だいたいがこの五つのカテゴリーに分類できそうだ。恋愛関係もステータスシンボルとしての異性や所有欲に駆られての束縛で説明できるかもしれない。また、ちょっと古臭い話になるかもしれないが、跡取り息子が欲しいなどというこだわりで恋愛をする場合も、4)の健康に当てはまるのではないか、と思う。健康で元気な息子が欲しい、みたいな。そりゃ、まあ、生まれてくる赤ん坊は、健康な方がいい訳なんだけれど。

僕には、時間短縮の思想がどうにも理解できない。まあ、僕だって、本を速読っぽく読んだり、つまらなかった映画を途中で見るのやめたり、みたいなことはするんだけど、お金のために焦って仕事をしたりって発想がどうにも理解できない。焦ったところで、手に入るのはお金だしなあ、と。焦っている人を見て、焦っている理由がよくわからない。

なんというか、僕の根本原理に、生命はただそれだけで価値がある、みたいなものがある。というのも、そもそも、人間一人一人に価値がなければ、価値の交換としての金銭を人間が扱えるわけがないのである。自身の価値を一旦金銭に置き換え、その上で他者の価値と交換するわけでだから。金銭を使用する以上、少なくとも、人間はただ存在するだけで価値があるって発想を根本におかざる得ないんじゃないか、と。