書きながら考える「殺伐とした雰囲気」の生成原理について。他。

「殺伐とした雰囲気」について研究してみようかと思う。といっても、僕の場合、研究=文章を書くことである。頭の中であれやこれや、考えても良いのだけれど、ある程度テーマを決めた上で、あれやこれやと文章を書くこともまた、研究たりうると思っているのだ。慣れの問題でもある。文章を書くことにある程度慣れているから、文章を書きながら、思考をまとめると、捗るのである。文章作成=思考実験といったところか。

時折、というか、割合頻繁に、殺伐とした雰囲気の集団や個人に出会うことがある。親でも殺されたのかなあ、と心配になる程殺伐としているのであるが、この日本社会において、そう頻繁に、親の敵討ちなどあり得ない。おそらく、何か別の理由で、殺伐としているのであろう。

殺伐とした雰囲気の集団の例。男子高校生。女子高校生。スーツ姿の男、女。学校教師。男親。もちろん、殺伐としていない男子高校生だっている。が、大半の男子高校生は殺伐としている。その証拠に、毎朝の通学時など、無意味に自転車を飛ばしている。歩行者のことなど御構い無しだ。

以上の、例は、あくまで僕の印象論である。ふっと思い返してみると、彼らは殺伐としているなあ、と感じられる。不思議なことは、彼らは、別に、軍人でもなければ、プロボクサーのような格闘家でもない。命の危険を伴う闘争に巻き込まれることは稀であろう。僕の問題意識としては、本来、そんな殺伐とせんでもって(変な言い方だけど)思われるくらいには恵まれた人たちが、なぜか、妙に殺伐としているのである。これは、おかしい。問題である。

小学生、中学生、高校生と眺めていると、小学生はあまり殺伐としていない。もちろん、くだらないいじめなどはあるが、序列が上の奴らは単純に偉そうに踏ん反り返っているし、いじめられている(と言いつつ、実は、いじめにおいて、いじめられている方が賢かったりする。)側も、単純に、いじめてくる奴らのことを嫌ったりしている。感情が素直な印象がある。あくまで印象論なんだけれど、一方高校生は、いじめている側もピリピリしている。少なくとも、グループ内において、それなりに高い序列にいながら、ピリピリしている。変だなあ、と思う。

ここに何故に、殺伐とした雰囲気が醸成されるかのヒントがあるんじゃないかな、と思う。実質トップがいない状態。いくら同輩の中で抜きん出ても、より上位の存在に監督されている、自分の行動を制限されている、だから、みんなピリピリしてしまうのではないだろうか。序列が上の奴らにしたって、頑張って序列をあげたところで制限されてしまうのだ。序列の下の方は、上位の序列の奴らにぞんざいに扱われるので、苛立ちも覚えるだろう。

彼らが被る制限ってなんなんだろう。それは、例えば時間などだろう。毎朝の投稿時間、高校生たちは、結構ピリピリしている。スーツ姿の務めびとも同様。おそらく、彼らは、時間に支配されている。そもそも、もし、学校で勉強することが本当に、大切なら、逆説的だが、遅刻したってなんら問題ないはずなのである。なぜか。学校での勉強が大切=もし、仮に一時間遅刻して投稿したとしても、学校を休むよりかはマシ、と言う結論になるからだ。なぜならば、たとえ三十分でも学校で勉強することに価値がある、と仮定しているのだから。でも、現実は違う。ただ、時間に遅れないことのみが重要となる。

自分の外側にあるルールに従うってことは、結局、自分自身の意思に何かしらかの制限を加えることになるのだろう。時間にしろそうだし。職業倫理にしろそうだし。常識にしろそうだし。服装規定にしろそうだし。

〇〇しなければならない、と言う外部から与えられた命令は、自分自身の意思をないがしろにするだろう。結果、自分を含めた周囲の人間すべてをないがしろにするのではないか、とおもう。例えば、遅刻を恐れて自転車を飛ばす男子高校生。自分自身に対しても、遅刻しないように自転車を急がせているし、周囲に対しても、危険走行で潜在的危険性を孕んでいる。なぜ、このような事態に陥るか、といえば、おそらく、人権思想とは、自分と他人とを等しく扱いなさい、と言う教えでもあるからだ。基本的人権は、自分も含め、全ての人々にある、だから、お互いに尊重しましょう、と言う考え。逆にいえば、自分自身に、人権を認めなければ、他者の人権も認められないことになる。このような事態は、よくよく頻発している。例えば、「ああ、やばい。このままじゃ、始業時間に間に合わない」と自転車をかっ飛ばすさい。周囲に人がいても、「ああ、俺は遅れそうでやばいんだ。確かに危険走行かもしれないが、俺の事情を慮れよ。俺が自転車をかっ飛ばすのは仕方ないことなんだ」と言い訳をしつつ危険走行を行う場合が考えられる。と言うか、僕自身そう言う心理になった経験がある。自分が大変、ゆえに、他者をないがしろにしていい、そう言う論理である。自分自身、外部要因ゆえに、大変な目にあい苦しんでいる、ならば、他者のことなど省みなくてもいいだろう。だって、他者は、俺ほど苦しんでいない。多少苦しみを分け与えてもいいだろう。そう言うわがままな心理である。

もちろん、自分自身がしんどい時まで、他者のことを配慮しなくちゃいけない、とまで思わない。けど、なぜ、自分自身がしんどいのか、といえば、外部からの強制のためである。いついつまでに間に合わなければならないとか、常識的な行動をとらなくちゃならないとか。外部からの強制を解くことができたら、僕たちは、自分で自分を追い込むことがなくなり、結果、いつも他人に優しくなれるんじゃないだろうか。

話がそれるが、僕は男子高校生的なノリが嫌いである。男子高校生的なノリと言うのが、些細なことで、どつき合う暴力的なノリである。どつかれたら痛いのである。しかも、ヘラヘラ笑いながらどついてくるから許しがたい。真意が掴みがたい。仲良くしたいのか、攻撃したいのか。おそらく、男子高校生たちは、モテたいのであろう。ゆえに、些細なことでどつき合い、序列闘争を繰り広げる。男は権力者になりたがり。女は権力者になびきたがる。冷静に考えると、権力者になりたがる男も、程度が低いし、権力者になびきたがる女も程度が低い。でも、大半の男と女がそうである。そして、だいたい高校くらいから子供から男と女へ本格的に分化するのだろう、と思う。程度が高い人間は、わざわざ男や女に分化しない。というのも、男や女への分化というのは、役割に自己をはめ込むことだからである。役割に自己をはめ込めば、それだけ自由度は下がる。だから、程度の高い男は、一見男のようであり、実は女のようでもある。また、程度の高い女は、一見女のようであり、男のようである。結果、程度の高い男も程度の高い女もモテにくい。と言うのも、端から性別などないからである。(ちなみに、ゆえに、程度の高い男女は、程度の高い下ネタを言い放題となる。なぜか、自身が女にして男である以上、下ネタを言うことで一方の性を貶めることになりにくいからだ。男であり女であると言う二重の価値観に沿った、下ネタを彼らは披露することができるのである。素晴らしいことだ。)

殺伐とした雰囲気がなぜ生まれるのか、といえば、おそらく、序列に対する信仰、闘争に対する信仰があるからだと思う。序列が上がれば上がるほどいい、と言う発想。闘争を重ねれば、闘争に打ち勝てが序列が自然に上がって行くだろう、と言う発想。でも、本当なのかな、と思う。学生や大きな会社に勤めているとついつい見落としがちになるが、僕たち人間は、そもそも、そんな大それた人間関係を必要としていない。貿易や交易も含めたら、それなりの人数と関わりあうことになるが、通常の生活において関わり合いになるのは、せいぜい二、三十人場合によっては五、六人とかだったりする。そんな少人数の中で、序列がどうのこうのと格闘して何になるんだろう。序列闘争の必要条件を考えてみると、1)性質が偏った人々が集まっていること。2)それなりの大人数集まっていること。である。例えば、水泳大会では、水泳選手ばかりが集まってくる。水泳大会に、ボクサーとか、将棋指しとかがやってきても、まあ、ボクサー兼水泳選手とかなら別だが、人数に入れてもらえないのである。水泳大会という序列争いは、水泳選手、という似たり寄ったりな人たちをたくさん集めた結果、開催可能となるのである。その他競技や賞も同様。学校などもそうだろう。同じような年齢の同じような人種のまあ、そういう似たり寄ったりを集めて、どんぐり乗せ比べ(なんか可愛い誤字。可愛いから残しておこう。正しくは、どんぐりの背比べ)を引き起こす。結局、環境次第じゃないか、と思う。環境が悪いから、闘争が起こり、結果、殺伐とした雰囲気が生まれる。

正直、僕自身は、殺伐さとは縁遠い人間なのだが、殺伐としている人を見るとかわいそうになる。と言うのも、なぜ殺伐となるか、といえば、おそらく、環境のせいだからだ。かわいそうである。

 

以下、僕なりに考える殺伐さを解消する方法。1)散歩。2)絵描き。3)絶食。4)菜食主義。5)武術を習う。6)反常識的な行いをする(誰も傷つけない形で)7)より高度なことを考える。8)仏教を学ぶ。9)人混みを避ける。10)やりたくないことをやめる。

おそらく、まだまだ出てくるであろうし、また、僕と言う個人の思考にとらわれる必要はない。僕には思いもよらないが、ある特定の個人には、とても効果的な方法もうじゃうじゃあると思う。あくまで、なので例です。

1)散歩。散歩は、一見無意味っぽいところがいい。どこか目的地があるわけでもない、それなのに歩く。例えば、登校するために通学路を歩く、のと、学校まで散歩へ行く、のでは、精神状態にとんでもない違いが出る。あくまで、僕個人の感想だが、散歩の方が楽しい。もちろん、例えば、その日がバレンタインデーで、女友達からのチョコを楽しみにしての登校などもあると思う。しかし、僕の考えでは、本来、散歩も登校のための徒歩通学も、歩く、と言う点で本質的に同じなのである。つまり、たまたま散歩していたら学校まで来てしまった、ついでだから授業でも受けようかな、というのが、理想の学校教育じゃないかな、とおもう。学校へ行くために歩く、のではなく、歩きたいから歩いていたら、たまたま学校がわへやってきた。偶然や理由のなさには、価値があるだろう、と僕は思っている。

2)絵描き。絵も多分、たまたまである。絵ってすごい偶然の産物である。まず、絵の具が半液体である。そんなものを扱うのだから、何かの拍子に、イメージ通りに行かないことの方が多い。で、そのたまたま感が、序列とか闘争とかそう言う価値観を一切吹き飛ばしてしまう、そう言う力があるんじゃないかなあ、と思っている。個人の感想である。当然、うまい下手も、ない。

3)絶食。絶食は本能を客観視するのに役立つ。もちろん、無理はしない方がいい。無理すると、性格が刺々しくなるから(僕自身の実体験である)。意外としばらく食べなくても、なんとかなるんだなあ、とびっくりすると思う。味、匂い、といった五感に対しても、客観視が可能になると思う。うまいものを食べるのが幸せだ、と思いがちだが、絶食中だって、面白いことはごろごろと山のように転がっているのである。まず、絶食という未知の体験が面白い。

4)菜食主義。単純な話なのだが、肉を食わないでいると、性欲がなくなる。女性のことはよくわからないが、少なくとも僕はそう感じている。僕自身完全な菜食主義ではない。外で食べる場合、お肉類が出された、普通に食べるし、週に一度前後、肉が食べたくなると、食べに出かけたりする。こだわりすぎるとしんどくなるからだ。ただ、性欲がなくなってくると、序列やら闘争やらへの興味も自然薄れて行く。もちろん、人間も生物なので、生殖行為を捨ててしまえば、次世代を残すという生物としての価値がゼロになりかねない。その点は注意が必要だろうと思っている。ちなみに、僕がこうして僕の考えていることを文章に知って伝えようとしているのは、性欲がなくとも、なんらかの生物的価値を作りあげたい、と願っているからだ。ややいい加減な説明になるかもとはちがうれないが、生物学に「ミーム」という用語がある(僕は専門家ではないので、以下の説明もしかしたら、ミームの誤用かもしれない。ただ、その場合、ミームという言葉の使用が不適当だっただけであり、僕が考えていることはそれなりに妥当だろうと思う。)。簡単にいうと、遺伝子以外で次世代へと伝わる情報、でいいだろうか。例えば、古武術古武術の動きは、遺伝子に書き込まれてはいない。しかし、細々とではあっても、脈々と受け継がれている。僕は、遺伝情報は次世代に残さない代わりに、こうした「ミーム」を次世代に残したいと思っている。それが、僕の生物としての価値である。はっきりいって、不倫ばかりしたり、生殖を重ねて遺伝情報ばかり残そうとする人は、おそらく次世代に受け渡せる「ミーム」が欠けているんじゃなかろうか。もちろん、「ミーム」に立って、残さん方が良さそうなものもある。そこら辺も含めて、僕らの腕の見せ所である。

5)武術を習う。僕自身勘違いしていたんだけれど、武術というのは、人より強くなるため、というより、自分より強い相手に対しても、臆せず相面するための技術というか心得なんじゃないかな、と思う。結果、自分より強いとか、自分より弱いとか、だんだんどうでも良くなって行くだろう。結果、序列闘争から距離を取れるようになるのではないだろうか。そもそも、他者より強くなりたい、いざとなったら、他者をひれ伏せさせるだけの力が欲しい、と思って武術を習得するのって、ただエゴに突き動かされているだけのように思う。武術の習得と言論の自由を希求することは、もしかしたら、相通じることかもしれない。

6)反常識的な事を行う。ただし、自分も他人も傷つかない形で。例えば、自分のおしっこを飲んでみる、とかどうだろう。不思議な味がする。単純に、苦い、とか、まずい、とかではくくれない味である。序列や闘争は、通常、常識の範囲内で行われる。だから、常識を離れてしまえば、あっさり、序列や闘争から、片足抜き去ることができる。他者から、「なんでそんなバカなことするの」と非難されることもあるが、仕方ないだろう。この世界が狂っているんだから。

7)より高度なことを考える。序列や闘争より、高次元の思考を身につければ、序列や闘争など無意味とわかるはず。

8)仏教を学ぶ。仏教にも色々ある。僕自身は、いろんなお経を翻訳で読んでいる最中。お坊さんに話を聞きに行くこともあるけれど、宗派に属することに意味はないだろうから、自分より勉強している人に会いに行くという目的で会いに行く。また、お経を読む際、漢文のお経ではなく、日本語に翻訳されたものを読むほうがいいように思う。漢文を意味が理解できるなら別だが、意味内容をじっくり捉えて行くことが大事だろう、と思うから。また、仏教には、不殺生戒や不淫戒などの戒律があるが当然、そうした戒律を守りたいと感じ始めれば、少しずつ闘争や序列思考から、離れて行くのだろう、と思う。一つの方法論として有用なんだろうなあ、と感じている。

9)人混みを避ける。僕の個人的特徴かもしれないが、人がたくさんいると、気持ちがざわつきやすい。理想は気心知れた人間と二、三人。学校は人が多すぎるだろう、と思う。先にも書いたが、似たような人間が大多数集まるから、序列闘争が勃発するのである。また、今ふっと思ったのだが、現実に物理的に少人数であっても、頭の中では大多数であることもありうる。例えば、塾などで模試の成績が返却された場合。その教室には、実際には、六人しか生徒がいなかったとしても、模試の成績表には、「一万人中あなたは何番目です」みたいな序列表記がなされている。流されない方がいい。

10)やりたくないことをやめる。みんなと同じルールに乗るから、そのルール内で序列闘争がおこ乗るのだろう。ルールを破れば、簡単に序列から遠ざかれる。

 

思うがままに、書いたので論拠不十分の感はあるんだけれど、素敵な文章が書けた。思考のたたき台です。