こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

付喪神と自動車

付喪神について書こうかな、と思う。今朝の散歩中に思いついたこと。半分冗談であると書き添えておく。

時折、とても乱暴に自動車を運転する人がいる。あるいは、こういう話をたまに聞く。「自動車に乗ると人が変わる」こういうことは実は僕も体験がある。僕は自動車には乗らないのだが、自転車に乗ると少しせっかちになるのである。

で、散歩中、通勤通学へ向かおう人たちの車を眺めていると、確かにせっかちなのである。少なくとも、夜九時くらいに散歩に出かけたときのゆったりしたスピードの運転ではなくなっている。車なんだから、それなりにスピードを出すのが当たり前、なきもするんだけれど。

で、一つの仮説を打ち立てた。みんなが車に乗ると焦ってしまう理由。それは、自動車そのものが、怨霊であり、つまり、自動車に乗る=自動車霊に取り憑かれている状態である、という説である。

自動車=物の霊、なのだからつまり、付喪神であろう。

なぜ、自動車の付喪神に憑かれると焦ってしまうのか。それは、そもそも、自動車とは、焦りの感情が生み出した機械だろうからである。なぜ、自動車が生まれたのか。それは馬車よりも早く遠くへ行きたいって気持ちがまず先にあったからではないだろうか。もちろん、単純に、高速移動への憧れもあったかも知れない。しかし、単純な高速移動であれば、馬車から馬を解き放って、騎乗すれば、少なくとも、馬車よりかは早く移動できるはずである。また、発明の時期が前後するのだろうが、バンジージャンプなどで、自由落下を体験するのもいい。単純な早さの追求と自動車の発明は結びつかないように思うのである。自動車の発明は、他者より早く移動したい、とか、今よりもっと早く移動したい、とか、もっと大量の荷物を移動させたい、とか、そういう感情ゆえの発明ではないか。それら感情を一括して焦りと名付けてもいい。で、その焦りの感情が凝集し、物理化した物が自動車だとするなら、自動車とは、焦りの感情を体現した怨念である。と、なるかもなあ、と思うのである。

で、その怨念に取り憑かれてしまう人たちが、自動車に乗っていて焦ってしまうのである。

対抗手段はいくつかあるだろう。例えば、一番手っ取り早いのは、自動車に乗らないこと。

で、次善策は、自動車という霊を複合霊として捉えてみること。自動車のような機械が今のような形になるには、おそらく、何百、何千人という発明家や技術者の力が必要であったろう。で、彼らは、きっと、様々な感情の元自動車を作っていったんじゃないかなあ、と思う。自動車が発明された根本は「焦りの感情」だったと仮定したとしても、その他の感情によっても自動車が改良されただろう、と思われるのだ。例えば、公共バス。公共バスは、多くの人たちの移動を便利にしたい、というそこそこ公共性のある感情によって作られただろう。つまり、事前の柵とは、「焦り」以外に、自動車に染み付いた感情を読み解いていく、というもの。まあ、僕は、自動車とか特に興味ないから、特に思い浮かばないんだけれど、何かしらかあるだろう。

感情というものを、一つの要因と考えると、この世界を満たしている大半の物理的実体も一種の霊として捉え直すことも可能になる。別に、捉えなおさなくてもいい。一つの、物の見方に過ぎないわけだから。