教材考

教材という言葉について。

教材。多分、教育材料とかの略なのかなあ、と思う。僕は、この言葉が嫌いである。嫌い、というか、この言葉だけ、であることが気にくわない。まあ、そもそも、教育自体が、気にくわない、といのもあるんだけれど。

なぜ、教材って言葉はこれほど流通しているのに、学材って言葉はまず聞かないんだろう。学習材料、なら、そこそこ聞くが、やはり、教材の方がポピュラーな気がする。

そもそも、現に流通している教材の多くが本当に教材なんだろうか。教科書の場合、教師は、これを手引きに授業を進める。となると、教材っぽい。教える側が活用しているからだ。でも、例えば、理科学の参考図録になると、ちょっと微妙だ。少なくとも、教科書に比べて、授業中参照する確率が著しく低い。教師があまり活用しきれていないのである。参考図録を活用しまくっているのは、学習意欲の高い生徒たちである。自学自習で活用しているのだ。となると、参考図録類は、教材、というより学習材料、学材じゃないのかなあ、と思うのだ。

そのほかにも、市販されている参考図書なども、教材ではなく、学習材料だろう。そのほか、理科の実験器具や、歴史年表など、教材としての側面もあるだろうが、同時に学習材料としての側面もある。場合によっては後者の方が色濃い。

学校教育って、なんというか、「教えてやるぞ」という意識が高すぎるのだと思う。だから、何でもかんでも、教材と呼ぶ。まあ、些細な言葉の問題である。正直、文章にしながら、そこまでこだわることもないなあ、と思ったりする。

ただ、教材という言葉より、学習材料という言葉の方が、汎用性が高いことは確かだろう。というのも、教育材料は、教える側の言葉であるが、学習材料は、学ぶ側の言葉であると同時に、教える側の言葉にもなりうるからだ。また、個人が日常生活を送る上で、教材とは滅多なことで出会わないだろうが(教職にでもついていれば別だが)学習材料には、毎日、それこそ一秒置きくらいに出会うんじゃないかなあと思う。反面教師だって学習材料足りうるし、ぼんやり眺めた風景の中にも学習材料は発見できる。体調不良時には、自分自身の体や精神状態を観察すると、なかなか学びになる。

おそらく、教材って言葉が流通しているのは、それだけ、人間にとって教育という行為が不自然だからであろう。つまり、何かしらかの道具に頼らないと教育を行えない。一方、学習などは、釈迦が瞑想を通じて悟りを開いたように、あるいは、ホーキング博士の思考実験のように、ただ、頭の中だけで成立しうる。脳みそを動かすためのエネルギー=食料および肉体は必要かもしれないが、それ以外に、必須の道具はない。一方、なぜ、教育には、教材なる道具が必要なのだろうか。改めて考えてみると不思議である。実は、重度の身体障害であった、ホーキング博士があれほどまでの研究を実現したこと、が不思議なのではなく、普通で、逆に、身体性や道具を必要とする学習(=教育。ちなみにここでいう身体性とはいろいろな意味を含むが、例えば教師や同級生など。)の方が実は、不思議なのかもしれない。いや、まあ、教育の良さもわかるのだが。また、身体性や道具を活用する教育も楽しいのだが(例えば、武術とか)。

僕たちが何かを学ぶ際、道具が必要なのか、というのは、なかなか面白い問いかけである。思考実験だけで自転車の乗り方を学べるか、どうか、とか。あるいは、誰が教師、誰が教育者か、と決めるのは、実は、人間の資質ではなく、誰が、教材を手に入れるか、誰がいち早くその教材の活用法を知るか、なのかもしれないな、とか。

教材とか、教科書、というのは、一種の魔法のアイテムなのではないだろうか。そして、その魔法のアイテムをいち早く入手し、生徒たちに配布したものが、教師となりうる。教員免許を取得したから教師に教師性が宿るのではなく、教材の流通経路を確保したから、教師に教師性が宿るのではないか。例えば、生徒たちへ教科書の配布がなんらかの事情でできなくなった学校は、教師たちを教師たらしめることができるのだろうか。また、何一つ教材がない状態で、塾講師は塾講したり得るのか。ケースバイケースだが、大半の場合、不可、であろう。

こんなふうに考えていくと、いわゆる情報商材の隆盛もそこそこ納得が行く。オリジナルの教材を作れたら、誰でも教師になれるのである。情報商材って、ようは、教材なのであろう。

それでいいのかな、という疑問は湧く。

情報商材にも良さがあるだろうし、また、学校教育にも良さがあるのだろうけれど、他の道を進む可能性ってないのだろうか。道具に頼らない、可能性。例えば、弓術の達人は、弓で的を射抜くんじゃなくて、心で的を射抜くそうである。そんなふうな。