こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

ぼんやりとテーマを決めた上での、自由連想的な思考。幽霊考。

ちょっと素朴な疑問なのだけれども、なぜ、紙が石を包んだら、勝ちなんだろう(じゃんけんの話)。

別の見方をすれば、紙より石の方が、同じ条件下でなら、より長い期間より現状をとどめそうである。

紙とは儚いものである。水に濡れた染みるし。

にしても、この儚い、という言葉も厄介である。儚い=切なさ、などとなると、小説やアニメにおいて、一種の娯楽成分である。そもそも、なぜ、儚さが娯楽なのだ。しかも、情緒的印象を与えるのだろうか。紙だって儚いのに。

そもそも、この世の中で儚くないものなどないだろう。ならば、結局、程度の問題か。五劫の擦り切れ。どんなでかい山でも、まあ、いろんな事情で形を変えて行く。

となると、変化まで含めて、物事を愛でると良いのだろうか。

変化、とか、諸行無常とか、という言葉と、愛でる、という言葉がつながる気がする。愛玩動物や纏足のように、敢えて対象を変化させないで、愛でる、という反対向きの愛でる、もありうるが。

もし、諸行無常を愛でる、という感性がありうるなら、その感性は、慈悲にもつながるのだろうか。

一方、確かに、この世のありとあらゆるものは、儚いかもしれないが、例えば、親が亡くなったからといって、子がなくなるわけではない。全てのものが変化したり、消えて無くなっていったりするとしても、全て同時に、消えて無くなるわけではない。

例えば、紙が風雨に溶けてしまっても、石はしばらく残るだろう。

この辺ゴミ捨ての論理と結びつきそうである。人はよく、犬のフンを拾えと文句を言うが。クソなど、ちょっと雨が降れば、綺麗に流れさるのである。犬のフンを拾えとは、ただの趣味の問題だろう。

全てが変化するなら、ただ、(今の所そこに)ある、ということしか言えないなあ。

その一方で、この世界は広く、たくさんのものが、ある。

その一方で、実は、すでに消滅したものが、ある、とされる場合がある。それは、幽霊である。

幽霊は、形を変えているのだろうか?幽霊も、また、諸行無常で、形を変えて行くのだろうか?それとも、形、というか、ある種の形式を頑迷に固持することで、幽霊は誕生するのだろうか。例えば、アニメファンの古いアニメへの強い思い入れ。アニメファンの脳裏に刻まれた、あるいは、新作で登場する、ルパンは、ルパンの幽霊なのだろうか。当初の声優さんも、製作陣も、すでにいないだろうから。

となると、伝統芸能は、ことごとく幽霊の芸能と呼べるかもしれない。

武道や、その他伝統の類は全て。

そう考えると、幽霊は身近である。

諸行無常でありながら、残る、とはどういうことなのであろうか。意志を継ぐとは、幽霊を生み出すということなのだろうか。ちなみに、この幽霊づくりは、知性とどのような関係があるのか。人間特有の能力なのか。

3000万円支払って手に入れた一軒家は、3000万円の幽霊だろうか。

実は、こうした幽霊群は、全て存在しない、としてみてはどうだろうか。

一挙に、これまでとは別様の世界が開ける気がする。

子供の頃から不思議だったこと。例えば、いま眺めているテレビは、ずっとずっと昔にどこかの誰かによって発明されたわけだが、その発明者さんはおそらくすでに亡くなってこの世にはいないだろう、という事実。現に、自分がとても身近に、もっと言えば、親近感を持って生活の一部として活用している諸々が、その発端までたどると、すでにいない人によって作られたものであるという事実。

石油とか天然ガスとか、そうだよね。

まあ、いっか。