くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

馬鹿と悪 または死刑制度批判

馬鹿と悪について。あるいは、僕が死刑制度に反対する理由。

なぜ、人は大犯罪を犯すのか。なぜ?理由は簡単であろうと思う。というより、すでに一行目にて露わになっている。それは、犯罪を犯す人間が、とんでもない馬鹿だから、である。

細かい検証は避けたい。が、概ね、僕の犯罪者=馬鹿説は、的を射ているのではないだろうか。秋葉原通り魔事件の加藤さんは、おそらく、(いろんな事情があったのだろうが)馬鹿だから、ああいう事件にまで発展してしまったのだろう、と思う。

僕は、凶悪犯罪者=利口説に納得できない。よく、世間というか、ワイドショーなどでは、シリアルキラーのことを、知能犯扱いする。でも、よくよく考えてみれば、犯罪を犯す時点で、馬鹿なのである。まず第一に、想像力が足りない。そして、慈悲心も足りない。また、他にやりたい社会的役割を模索する能力も足りない。まだまだ、足りないものがあると思う。例えば、もし、文学に感動するだけの感性があったなら、犯罪など侵さないだろうし、また、良い師に巡り会えるだけの人を見る目があったなら、犯罪など侵さなかっただろう。また、仏教をよりよく理解するだけの知能があったなら、煩悩に流され、罪を犯すこともなかっただろう。つまり、犯罪がなぜ起こるのか?それは犯罪人が、馬鹿だから、である。

僕は、ヒットラーのことを利口だとは思えない。本当に、頭のいい人とは、マハトマ・ガンディーのような人だ。つまり、なぜ、ホロコーストのような大虐殺が起こったのかといえば、やっぱり、馬鹿だったから、だと思うのだ。

もちろん、人は多かれ少なかれ、馬鹿である。そこそこ利口な人もいるけど、見渡す限り、馬鹿ばかりなのが現状である。大学教授もそこそこ馬鹿が混じっているし、政治家にも馬鹿が多い。また、官僚などにも、馬鹿が混じっている。

また、別の見方をすれば、犯罪人=馬鹿ならば、絶対的な悪は、人間のうちに存在しない、ということでもある。つまり、犯罪人が罪を犯すのは、彼の中に、絶対的な悪の性質が潜んでいるから、ではなく、単に、彼が馬鹿だったからにすぎない、と僕には感じられるのである。

馬鹿だから、仕方ないじゃないか、という話にはならない。もちろん、馬鹿でも、馬鹿なりに罪に問われなければならない。けど、犯罪人の存在を抹消する死刑制度は、腑に落ちない。というのも、死刑制度が要請されるのは、犯罪人=絶対的悪という前提ありきだと思うからだ。犯罪人=絶対的悪ならば、その絶対悪の存在を抹消すべきである。というのも、悪が滅べば、それだけこの世界はより幸いな世界になるはずだからである。しかし、絶対的な悪など、この世界にはない。単に、犯罪人=馬鹿なだけである。馬鹿には、学んでもらうしかない。いろんな学びを通して、賢くになってもらうしかない。

というわけで、僕は死刑制度っておかしな制度だ、と思っている。

みんな薄々気づいていることだろう、と思う。

悪って概念に対応する対象物などこの世界には存在しないのだ。馬鹿=悪、と捉えるのは無理があるように思う。

これまで、悪について思考してきた哲学者は数多くいたけれど、みんな検討はずれだったのだと思う。

どうすれば、賢くなれるか、それが、これから僕らが考えていく課題である。