怒りと慈悲の生成関係

怒りと慈悲。

以下メモ書きみたいなもの。というのも、いま、夏の昼日中。暑くて、長文を書く気になれないのだ。

以下で主張したいのは、仏教でいうところの慈悲は、怒りの感情を前提に要請される感情なんじゃないかなあ、ということ。仏教の専門知はないので、いつものように直感だよりの印象論である。

僕は、割合、怒りっぽいで、馬鹿な野郎と関わる羽目になると、内心、「よし、殺そう(なぜならば、こいつとんでもねえ馬鹿野郎だから)」と思ってしまう。要は、結構、沸点が低く、すぐ怒り狂ってしまうのである。

しかし、僕は、一旦は怒るものの、想像力を働かせるのである。(いくら資本主義に毒された馬鹿野郎でも)死んでしまうのは、殺してしまうのは可哀想だ。結果、僕は馬鹿野郎に危害を加えたことはない。

で、そんな僕自身の体験を踏まえて、慈悲の心って、そもそも、怒りとか苛立ちといった感情が生起するから、必要となる感情なんだよなあ、と思ったのだ。

もし、僕が端から、怒りという感情もたず、馬鹿な人間に対し一切の興味がなければ、そもそも、慈悲心なんて不要じゃないか。ちょっと、短絡的だけれど、怒りの感情がなければ、慈悲心なんて生まれようがないんじゃないのか、などと思ったのだ。ついさっき。

実際のところは知らない。

やっぱり、ブッダは、怒りなんて感情を超越しており、ただ慈悲の心のみで人と接していたのだろう、とも想像したりする。

ちょっと愚痴になるが、この世の中の人は、どうして、これほどまでに浅ましいのだろう。他人の非礼を非難しておいて、自分自身は当然のように礼に欠ける。金が全て、(自分も他人も含めて)人間の行動原理を金で根拠づける馬鹿。嫌な仕事いやいや続ける馬鹿。子供達にトラウマを植え付ける塾講師。大学生には、もっと自分たちの価値を確認してほしいよ。時給がいい、ってそれだけの理由で、塾講師とか家庭教師とかにならないで欲しいよ。徹底的な自主自立を身につけて欲しいよ。いろんなことに、踊らされないで欲しいよ。