メモ書きのメモ書き 一人訓詁学解釈学 貧しさと豊かさについての何か。

逆説的なんだけれど、以下のようなことを、つい先達て考えた。ここ数日、新しい仕事が始まり、メモ書きにとどめていた発想だ。以下、思いついた際に作成した、メモ書きである。

「貧しくなれば豊かになる、んじゃないかなあ。

 みんなが車に乗らなくなれば、車に乗れることが仕事になる。

 社会的役割とは?」

以下、このメモ書きと記憶を手掛かりに、当時(って言っても、実は、三日ほど前なのだが)考えていたことをまとめていきたい。こういう時、メモって便利だ。が、同時にもどかしい。やはり、思いついたときに、思いついたままかくと、自分の脳みそをそのまま引きずり出して文章にするような感覚があり、大変充実する。何はともあれ、僕は、あれから三日間生き延び、三日間学び、三日間以上の成長を遂げてきたわけだ。こうして、時間を隔てて本文を書くことにも、恵は多いだろう。

まず、先のメモ書きは、三つのパートに分かれている。一行目、二行目、三行目、である(そりゃそうだ)。で、それぞれの行は、「端的に」ではあるが、それぞれ、異なる役割を担っている。つまり、一行目は、根本のアイデア。二行目は、そのアイデアを根拠づけるための例示、あるいは思考実験。三行目は、今回のアイデアの抽象度を高めるための問いかけ、である。ぱぱぱっとメモしたのだが、こうして振り返ってみると、なかなか要領を得たメモだなあ、と思う。iphoneおよびmacはこうしたメモ作成時とても便利である。というのも、iphoneのメモとmacのメモとが連動するから。日時を記入しなくても、勝手に時系列順に、日時付きで記録してくれるところも便利だ。(あとは、メモした内容を、カード状に印刷できれば、最高である。)

で、今回の発想の裏側には、「豊かさ」って何?って素朴な疑問がある。具体的には、そその時僕は、キューバについて、連想を広げていた。僕自身は現地に訪れたことはないのだが、キューバは医療設備も制度も充実しているし、たとえば、お金がない人でも、建築材料を国が提供してくれるそうである。キューバは経済規模で言えば、日本より貧しい。でも、生活面では、日本より豊かなんじゃないかなって気がする。人々の個々の生活のことを、日本人の生活、とか、キューバ人の生活、とかで、くくって語ってしまうのは、おかしい、とも思うのだけれど、要は、金銭的豊かさと生活の豊かさは比例しないんじゃないかな、って思ったのだ。逆に、金銭的に貧しいからこそ、生活や人格が豊かになったりはしないだろうか?と。

メモ書きにある例の補足である。例えば、もし、この日本社会が、今の比じゃないほど、金銭的に貧しくなって、もう、市民の百人に一人くらいしか、車を所有できなくなったとする。そんな社会では、おそらく、大半の人が、わざわざ運転免許証を取得したりしない。しかし、そんな社会は、同時に、車を持つ、あるいは、車に乗れるってことがとても、社会的価値を持つ社会にもなりうる。今の社会では、車の運転ができたから、といって、また、車を所有しているからといって、ただ、それだけでは他者から尊敬されない(別に、尊敬されるかされないかは、実は本質的な問題ではない。本質的な問題は、なぜ尊敬につながる感情が生まれがたいか?である)。でも、もし、日本がどん底まで貧しくて、車に乗れることが例外的な状況になれば、車に乗れるってだけで、社会的な価値を生み出せる。つまり、如実に、他者の役に立てるようになるのだ。僕の考えや感性では、ありとあらゆる人が、その人自身にとって簡単なやり方で、他者の役に立てるようになれば、それは豊かな社会なのである。車の運転という、ほんの些細な技術でさえ、もし、この世界に、ほとんど車がなく、運転技術もなければ、みんなの(つまり、社会的な)役にたてる技術となる。需要と供給の対概念で説明すれば、供給量をぐっとへらすことによって、需要をぐんとあげるわけである。で、要は、需要の高さ=価値である。供給量が下がれば、ありとあらゆる事柄に、価値が高まる。もちろん、食料など必需の供給が滞ってはならないけれど。(ちなみに、僕は需要と供給と対概念として捉えるという発想は、ある面では妥当だが、ある面では、ただの思い込み、というか、そんな事実はないように感じる。そもそも、なぜ、無いものを求められ、ないものを作り出せるのか。)

あらかた書き終えて、感じるのは、これって要は、昔は良かった的な発想なのかもしれない。昭和はよかったとか、三丁目の夕日的とかそういう。まあ、違うんだけど。

というのも、別に、昔に戻る必要はないから。昔とか、今とか、未来とか、そういう時間軸を問題にしていないから。

僕の問題意識は、どうすれば、他者と他者とが、打算意識なく、互いに求め合う関係がうまれるのかなあ、というもの。ここでいう打算、というのは、例えば旅行代理A社で旅行プランを組んだところ5万必要だそうだが、あとあと知ったB社に頼めば、4万5000で済む。だから、A社を断り、B社に頼もう、といった類の発想。確かに、五千円分お得かもしれないが、もし仮に、より安いC社が現れたら、今度は同じ発想でさらに乗り換えなくてはならない。そんなの面倒だし、忙しない。そういう、比較をやめない発想って、なんだか虚しくなる。まあ、僕自身、割と比較しまくっているわけだけれど。じゃなきゃ、仕事やめて再就職とかしないわな。

うーむ。メモをもとに文章を書いていたら、さらにおおきなメモを書き連ねているようだ。まあ、いいんだけれど。

どうすれば、他者の役に立てるだろうか。どうすれば、社会的役割を創出できるだろうか。もっと言えば、どうすれば、より気安く他者の役に立てるだろうか、どうすれば、より安逸に、社会的役割を創出できるだろうか。

気楽、とか、気安く、とかいう言葉は、冷静に考えてみると、とてもいい言葉である。だって、気持ちが、楽しく、安心しているのである。で、そんなふうに、みんなが、気楽に気安く、社会的役割を担えるようになるために、いっそ、ある側面において、この社会は貧しくなってもいいんじゃないかな、と思ったのだ。正直、我ながら、捉えどころのない、雲をつかむような発想である。でも、新しい道が開けるんじゃ無いかな、と思う。

ふっと不思議におもうことがあって、それは、昔の人たちは、その地方その地方で、地元地元で、歌舞伎やら能っぽいものをそれぞれ演じて楽しんでいたのである。今のように、わざわざ東京の歌舞伎座へ行かなくても、毎年のお祭りの中で楽しんでいたのである。まあ、今でもそういう地域はある。こういうことを書くと、ただの復古主義者と勘違いされそうで嫌なのだが、別に、踊りたくなった人がその場で踊って、それを見たい人が見る、それでいいんじゃ無いかな。

最後に、書き漏らし。新約聖書に出てくる片目の王の比喩について。僕自身の勝手な感想である。ちなみに、聖書解釈について僕は一切の知識がない(なので、本当に、素人の印象論である。)。

片目でみようが、両目でみようが、世界は世界だろう。感じ方は異なるだろうが。で、別に、片目で世界を眺めて、その感性が、例えば、目を使わない人たちの役に立つなら、それはそれでいいだろう。問題なのは、そこで自惚れて、王を自称してしまうことだろう。ぶっちゃけ、両目の王とか、いっそのこと三つ目の王とか、それはそれで変な話だ。別に、片目でも、いいんじゃないの。