こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

損得勘定を拡張解釈する。 付、報酬量一定の法則(仮説)

会社を超えた、損得勘定を持ちたい、と願う。実際のところ、だいたい概ね、会社を超えた損得勘定で動けている、と思う。

世の中には、ひどく視野の狭い、簡単に言えば、頭の悪い状態で、一所懸命に仕事に没頭としている人が、大半で、悲しい。かわいそうなのである。例えば、以前務めたことのあるホテルでは、ホテルの正社員は当たり前のように、アルバイトを罵倒する。彼ら、正社員は以下のような発想をしたことが一度でもないのだろうか。もし、ないのだとしたら、やはり、彼らは馬鹿なのだろう。「もし、俺が、この場でこのアルバイトの子を罵倒することで、彼ないし彼女が精神的に傷つき、自己評価を低め、今後、ここでのアルバイトを辞めた後も、彼ないし彼女は、自己嫌悪や低い自己評価意識を引きずり、彼ないし彼女が本来発揮し得ただろう、社会的価値を損なってしまうかもしれないな」確かに、文頭から、「。」まではちょっと長い、けど、誠実に思考する人間なら、この程度の発想自然にぽんぽん生まれるものである。

この文章自体、罵倒の一種じゃないか、というツッコミもあるかもしれないが、文章と口頭とでは、同じ「馬鹿」でも、捉えられ方が違うだろう、文章なら、読まなければいいのである。また、僕自身は、何の権威もなく、ただ、文章を書いている。会社や、仕事上の地位など、僕は欲しないと、どうでもよい、と思っている。ただ、僕は僕の知性と感性とを信頼して、文章を書いている。ただ、常識的判断に流されて、無思考に、他者を罵倒する人間とは、その点で、まるで違うだろう、と考えている。

なぜ、仕事になった途端、多くの人たちは簡単に他者を罵倒するのだろうか。その仕事が、そんなに、大切な仕事なのだろうか?僕には、甚だ疑問である。確かに、他者を言葉によって傷つければ、他者は下僕のように、その場では動いてくれるかもしれない。でも、それだけじゃないのか。他者を下僕のように働かせる、ということは、その他者から、自由な思考を奪う、ということである。確かに、今、この瞬間は、他者を下僕に使えて便利かもしれない。でも、下僕だらけの社会になったら、遠い目で見れば、社会全体の生産性が低下するだろうし、なにより、つまらない。下僕っぽい女と男から、僕は、魅力を感じられない。

今一度、仕事と、その仕事で得られる報酬、つまり、活動と報酬の相互関係をじっくりと吟味してほしい。そもそも、報酬なんて、端から考えてもいない活動だってあるだろう。そして、報酬を一つの量、と捉えると、その報酬は、どんな形になろうとも、一定の量を保つはずである。エネルギー量保存の法則をもじり報酬量保存の法則と名付けよう。例えば、あなたが農業を営んでいたとして、野菜をたくさん収穫したとする。もし、その野菜を換金したら、野菜の形での報酬量は減り、お金の形での報酬量は増える。また、換金するのではなく、例えば、知人や友達に野菜を分けたとする。すると、野菜という形ので報酬量は減り、人間関係だったり喜びだったりといった目に見えない形での報酬量は増える。そういう発想である。同じ、活動でも、いろんな形で報酬を得ることが可能だし、どんな形に変化させようと、報酬量は変わらないだろう。以上の説明は、もちろん、ただ、僕がそう言っているだけのことである。まあ、それなりに的を射ていると思うし、思考の補助線に活用できるだろうけれど、学術的な根拠は、まだ確立していない。まあ、僕以前に、こういう発想をした人が、学術の世界にもいたのなら、話は変わってくるだろうけど。

なんというのかな、損得勘定って言葉自体すきではないのだけれど、だとしても、ちょっと視野の狭い、発想で損得を計算している人が多いなあ、って思う。

僕自身はどうなのだろうか・・・?