節約で世界を変える

ブログ名の通りです。僕は、この社会はこの日本の社会はおかしいな、と思っています。お金なんて本来いらない。少なくとも、みんなが期待しているほどお金などいらない。お金などほとんどなくても楽しく生きていける。その可能性はある。少ないお金で暮らしていけるのなら、毎日毎日、長い時間かけてお金のために働く必要もないだろう。お金にこだわらず、少ないお金で楽しく生きていく方法を仮に、「節約」と呼ぼう。(僕の本心では、節約って言葉より、「質実」とか「こだわりの少ない」とかで表現したのだが、それだとわかりにくだろうから。)そ

支出と収入と家畜にまつわる思考実験。

牛を殺したり、馬を殺したり、鳥を殺したり、豚を殺したり、山羊を殺したりするのは、きっと、こうした家畜たちを育てるのに、少なからず、おかねがかかるようになったから、なのだろうなあ、と思う。つまり、家畜を屠殺する食肉文化と、貨幣文化は、なかなか相性がよろしいようだ。

以下、僕なりの説明。

まず、現状の分析から(といいつつ、以下の文章は、純粋に思考から導いたものであり、実地取材したわけではないです。なので、もしかしたら現状と齟齬があるかもしれません。)

牛にしろ、馬にしろ、鳥にしろ、豚にしろ、山羊にしろ、今日では、彼らを飼育し育成するには、少なくないお金がかかるだろう、と思われる。具体的には、土地代、飼料代。つまり、こうした家畜を育てる以上、どこかで、家畜らを利用してそれ相応の収入を得なければならないわけだ。破産しないためには。で、そのために一番手っ取り早い方法が、家畜を屠殺して、肉を売ること。これが、今現在日本で、家畜を飼育する人たちの現状なんじゃないのかなって思う。

で、ここで、思考を現在の日本から飛ばしてみよう。例えば、弥生時代とか、そういう時代に、あるいは、モンゴルあたりの遊牧民の生活へ。

おそらくなのだが、もともと、僕たちは、ゼロ円で家畜を飼育して射たはずなのだ。土地代は、かからなかっただろうし、飼料代だって、その辺に生い茂っている種々を、家畜たちが自由に食んでいたはずなのだ。僕たちがすることは、オオカミなどの捕食者から、家畜を守ることや家畜が逃げ出さないように見守ることだろうか。それにしたところで、家族ぐるみで放牧を行っていただろうから、雇用費はかからない。となると、どうなるか、つまり、支出分以上の収入を得なくてはならないどころか、そもそも支出が、少なくとも金銭的には存在しないため、例えば、牛から一リットルでも乳が絞れたら儲けものであり、また、鶏から一つでも卵が生まれたら儲けものなのである。支出が一切ない世界でなら、僕たちは、家畜の命を故意に奪う必要はないのではないか。もちろん、自然は厳しいかもしれないし、細かい点で、困難は存在するかもしれない。でも、僕たちには、他者の命を奪わなくても、生きていける可能性が、ほんのわずかにでも、存在しているのではないか。

ちょっと大げさな話をする。例えば、美味しいお肉を食べたい、と思って豚を殺すのと、殺人が楽しくてたまらなくて人を殺すのと、どれくらいの違いが存在するっていうんだろう。前者も、とどのつまり、味覚という快楽を楽しませるための豚殺しであり、後者は、いわゆる快楽殺人である。どちらも、快楽のために、殺しが行われている。僕は、他人に自分の考えを押し付けることはできない。でも、どうにも、こうした点を一切考えずに、みんな右から左に流れて行っている気がしてならない。それは、俗に、思考停止状態というんじゃないのか。

ずっと、むかし、とある小学校で、豚を飼育し最後にみんなで屠殺するかしないかを話し合い、結局、屠殺して食べる、みたいな授業が行われたと記憶している。でも、その程度のことが食育なのかよ、と僕は思ったりする。なんだ、その民主主義の押し付けは。どうしても、殺したくない、って感じた少数派は黙殺か。そもそも、どうして、みんなで決めるんだ。どうして、答えが食べるか食べないかの二択だけなんだ。どうして、答えが、選択問題として事前に用意されているんだ。不条理だと感じる問題に対して、事前に想定された解答のみで、解決できるはずがないだろう。全く新しい可能性を、模索するしかないだろう。これまでの判決判例じゃ、なにもかもがもどかしいのだから。(と、感情的に書いてしまったが、ここで取り上げた小学校での特別授業について、僕は、子供の頃一度特集番組を見た程度の知識しかない。もしかしたら、僕の誤解によって、あらぬ批判を行っているかもしれない。なので、この段落での批判は、あくまで、現実に行われた授業に対して、ではなく、僕の想像の中で思い描かれた「命の授業」に対して行われている。)

ゼロ円って発想は、坂口恭平さんから影響を受けているのだが、とても、すばらしい発想だ、と思っている。例えば、より生活費を安くって発想より、生活費をゼロ円に、って発想の方が優れている。何故ならば、より安く、では、比較の思考になってしまうからだ。たとえば、月十万でくらせたとしても、より安く暮らしたいと思えば、焦りや煩悩が湧いてくるかもしれない。でも、いっそ、ゼロ円が当たり前、って発想に切り替え、実際に実践できれば、そうした煩悩からおさらばできそうである。ゼロは一つの究極である。ないのにある。あるのにない。ってすごい。

少しずつ少しずつ、ゼロ円領域を増やしていけばいい。例えば、ぼくにとって、お茶は、ほぼゼロ円領域である。お茶っぱとなる草は近所の公園から無料で手に入るからだ。水道料金も定額なので、新たに水をくんでも請求額はゼロ円である。お湯を沸かすための電気代は微量にかかるんだけれど。

自分がちっぽけになったり、大きくなったり。忙しないなあ。

ゼロ円志向というのは、現代人なりの、自然への回帰なのだと思う。