くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

日記 覚書

日記。

ゴキブリについて考えている。つい先日、なぜ、ゴキブリは、一匹ずつ姿を現わすのか?という疑問が湧いた。で、その疑問に対して、自分なりの仮説を立てた。その仮説とは、以下のような仮説である。ゴキブリには、出稼ぎゴキブリと、家庭を守るゴキブリと子供ゴキブリに分かれる。で、出稼ぎゴキブリは、危険を顧みず、部屋を縦横に動き回り、エサらしきものを見かけると、大量に食べる。で、その後巣へ戻り、巣にて排便をする。で、家庭を守るゴキブリと子供ゴキブリたちは、その出稼ぎゴキブリの糞をせっせと食べる。家庭を守るゴキブリは産卵や子供を守る。そういう役割分担があるから、ゴキブリは、一匹ずつしか現れないのだろうか、などと思った。特にゴキブリの生態について調べたわけではない。

内山節さんの「新・幸福論 「近現代」の次に来るもの」を半分くらいよんでいる。そのなかで、現代の僕たちは、個人としてではなく、じゅっぱひとからげの人々として捉えられている、という話があった。例えば、高齢者について語る際、佐藤さんちのおじいさんではなく、我が国には〇〇万人の高齢者がいる、というふうに、一つの集合というか、「人々」として個性を没却して捉えられている。結果、政治や経済などが、自分という個人と無関係に働いているように感じられ、結果、政治や経済といった本来自分たちの生活に密接に関係しているはずの物事が自分たちから遠くへ逃げていっているように感じられる、そういう話が書かれていた。で、ここでいう僕たちがそれぞれに異なる関係性を持つ個人としてではなく、没個性的な「人々」として捉えられている場面は、この社会に充満しているなあ、という感想を抱いた。具体的に思い描いたのは、センター試験であった。センター試験でどれだけいい点を取ろうが、悪い点を取ろうが、自分と同じ点数の人間はたくさん存在するわけである。例えば、600点台の人々、700点台の人々800点台の人々、と括られてしまうのだ。そこでは、個人の資質など一切顧みられていない。少し、腹立たしくなった。テストなんていらないなあ、とか、テストを含め、学校のあり方を変える必要があるようだ、などと感じた。そもそもどうして、600点の人と601点の人が違う人間なのか。逆に、600点の人と600点の人とがどうして同じ人間なのか。この世界の評価基準は間違っているし、そもそも、評価、って発想が間違っているんだろう。

この頃、考えていることは、個人として行える社会運動について。僕は、さまざまな社会運動を行なっているつもりだ。例えば、蚊取り線香を覗く、殺虫剤を一切使わない、というのも、単に、僕個人の趣味ではなく、社会的に意味あることだと思って行なっている。毒物をそんな手軽散布していいのかよ、という疑問があるのだ。こうしてブログでよくわからないことをのたまっているのも、社会運動の一環だったし、近所の図書館に寄付するために、わざわざ新品の本を購入するのも社会運動のつもり(他の利用者が紛失したのか、いつの間にかなくなっていた本を寄付する予定)。こうした個人的に手軽に行える社会運動をどんどんどんどんふやしていかないとなあ、と思っている。

この社会を段階的に変えていこう、というきもちが昨日あたりから強くなっている。それ以前は、こんなダメ社会、一気呵成に塗り替えなくちゃダメだ。でも、そんなの無理だ。と頭を抱えていたのであるが、まあ、そんな焦らなくても、着実に変えていけばいいだろう、と思い改めている。どういう心境の変化だろう?我ながらよくわからない。

そういえば、昨夜は、ゴキブリは現れなかった。気がつかなかっただけかもしれないのだが、羽音やカサコソという歩行音は聞こえなかったのだ。一通り、捕獲して屋外に逃がせたのだろう。五匹くらい捕まえて逃がしただけなのだが。ゴキブリ一匹=三十匹説は、きっと嘘であろう。

立身出世を目的に働く奴はくそである。ただ、言っておきたくなっただけ。

今朝方、朝食後すぐに、散歩に行こうとしたのだが、やはり食後すぐに体を動かすのは良くないようだ。すぐにお腹が痛くなる。排便したら治ったので、よかった。

日記を書こうと思ったのだが、どうにも、うまく昨日のエピソードが浮かばない。いや、浮かぶのだが、あれもこれも、ちょっと個人的な内容だよなあ、とためらってしまう。一言で言えば、昨日は楽しかったのである。肉体的にも成長している。ただ、暑い。エアコンは必需品である。夜間に寝苦しさを感じたのは、今年初めだった。みんなどうやってこの暑さをしのいでいるんだろう。