こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

仕事についての素朴な疑問

この世の中にこんなにたくさんの職業って必要なのかなあ、と思うことがある。

職業について考えるとき、僕はどうにも虚無的になる。この世界の大半の職業は、無用の長物で、ただ金儲けや虚栄心を満たすためだけに存在している。そういう思い込みがある。思い込みである、という自覚はあり、おそらく、他の人々からしたら、それらクソのような職業も、必要な仕事、なくてはならない社会の歯車、だったりするのだろう。まあ、僕自身は、その間がには、どうにも共感できないわけだけれど。以下、思い浮かぶままに、素朴な疑問である。問いかけであって、答えはない。

たとえば、工場。ある工場では、24時間機械をぶん回すために、人間側が交代制で機械に合わせて働き続けている。24時間ずっと。機械を24時間回転させることが、利益の最大化につながる、という発想は理解できるのだけれど、そんなことのために、人間の生活リズムを崩していいのかなあ、と素朴に疑問である。

たとえば、女子アナウンサー。あくまで僕のイメージなのだけれど、そこそこ高偏差値で要望に自信のある女子の憧れの職業ってイメージがある。一言で言えば、人気の職業。でも、それほどまでに人々が憧れるほどの働きを女子アナウンサーは果たしているのかなあ、と疑問が湧く。誠実に仕事をしている人も多いのだろうし、災害時の報道など命がけだ。でも、通常のニュースでは、くそくだらないコメント「(イケメン俳優に対して)かっこいいですね」動物園のパンダの出産に対してどうだこうだ、そうしたコメントに癒される男性もいるのだろうけれど、社会貢献につながる仕事なのか、と疑問が湧く。社会の役に立たない仕事など必要ないんじゃないのかな、と思う。また、女子アナウンサーは、おそらく、生活が不規則になる職業である。生活リズムを崩し、健康を害する危険を冒してまで、務める必要のある仕事なんだろうか、と疑問が湧く。生放送でセクハラを受けるリスクもある。基本的に、決められた原稿を読むだけなら、視聴者に知的刺激を与えることも稀だろう。

女の子の憧れの仕事、といいうのは、一般に、健康を犠牲にする仕事が多い気がする。たとえば、キャビンアテンダントさんは常に時差ボケに適応しないといけないため、慣れなうちは体調を崩すだろうし、アイドル、モデルが食事制限で体調を崩すなんて話も聞く。しかも、そうした自分の健康被害を無視してでも務める社会的価値のある仕事か、といえば、疑問が湧く。

そもそも、夜間に働かなきゃならない社会がおかしいんじゃないかな、って思う。たとえば、警備員や消防隊員、自衛隊員、警察官、医療関係者、といった特殊な例を除き、夜間労働を当たり前と捉える社会は、異常なんじゃないか。一人一人の市民の生活をなんだと思っているんだろう。市民の側も夜間に働けば時給も上がりラッキーと思い込んでいるわけだけれど。

塾もいらない。というか、子供に勉強を教えるというビジネスはありなのだが、学校終わりに塾に通わせるというスタイルがおかしい。なぜか。それは、子供達を夕方、塾に通わせれば、その分子供達の睡眠時間が削られるからだ。高校生も含めて、二次性徴期の終わっていない子供達から睡眠時間を奪うことは、明確な成長阻害である。そんなことを、教育産業を自称する塾業界が行っていいのか?もし、塾を開きたいなら、朝十時から夕方五時までの時間帯で開くべきだ。公の学校教育と競合するのである。学校に行くよりうちの塾に来た方が学びが多い、そういう主張を込めて、学校とほぼ同じ時間に開講する。そして、子供が夜間しっかり眠られるように、早めに子供達を帰宅させる。それが本来あるべき教育の姿じゃないのかなあ、と思う。すくなくとも夜中九時まで塾に子供がいるのは、おかしい。

学校における、夏場の部活動指導もおかしい。なぜ、夏場に、肉体を痛めつけなければならないのか。暑い時は、みんなで涼めばいい。部活動の顧問だってその方が楽だ。受験にしろ、インターハイにしろ、夏を制したものが試合や試験を制するみたいな発想があるのは変だ。夏という疲れやすい時期には、避暑地に行くとか、海や川で遊ぶとかすればいいのである。そもそも、真夏日に全国的な選手権が開催されるのがおかしい。誰もおかしいと思わないのか。児童虐待じゃないのか?野球をしたいなら、秋とか春とかにすればいいだろう。どうして、夏にこだわるんだ。まあ、僕は、野球には一切興味がないから、かまわないけれど。でも、甲子園球児が「あ、俺夏弱いんで今回の試合パスで」とか言えるくらいの自由さがあればいいなあ、と思う。

夏は、オフモードでいいと思うのだ。どういうわけか、この国では、夏こそ頑張れ、という根性論がまかり通っている。どうして、あえて、夏なのだ?と疑問が湧く。夏、体力を温存して、秋やりたいやりつくすぞ、とかではダメなのだろうか。おそらく、ライバルに打ち勝たねばならないっていう発想があるからだと思う。ライバルがへばっている間に、先へ行く。うさぎとかめ状態である。僕の基本発想は、競争をやめてみんな、やすみたいだけやすみ、はたらきたいだけはたらけばいいのに、である。で、各自思う存分成長していけばいい。

加工食品の大半は不要なんじゃないか、と思う。もしかしたら、僕の一方的な偏見かもしれないけれど、菓子パンを食べるより、ご飯をお椀いっぱい食べた方が身になるんじゃなかろうか。ポテトチップスを一袋食べるくらいなら、蒸したじゃがバターを食べればいいんじゃないだろうか。僕自身、味噌やチーズやバターなど加工食品は食べているが、例えば、バームクーヘンだとか、おはぎだとか、ケーキだとかといった加工食品を食べる必要があるのか、疑問である。もちろん、嗜好品としてたべる、という発想は理解できるし、僕自身、週に一度くらい食べたくなり、食べる。でも、生きて行くのに必要な食事ではないだろう。米、生野菜、果物、卵、豆、があれば人間は生きていける。なら、わざわざ加工食品を生産する必要はあるだろうか。加工食品を生産するのにも、原材料に鳥さん牛さん豚さん魚さんなどの命や、また、人々の労働時間を必要とするのである。他者の貴重な時間と、他の生き物の貴重な命とを引き換えにしてまで手に入れるものなのだろうか、加工食品を食べることで得られる快楽って。

僕は、「全人類が分かち合うことが可能なほど大量の食料が生み出され、また、その食料を供給するための交通手段が築かれてなお、なぜ新しい仕事が必要となるのだろう?」という疑問がある。なぜ、わざわざ新しい仕事が必要なのだろう?逆に言えば、その新しい仕事がうまれることで人々のいのちが救われるのだろうか?

仕事という概念にとらわれず、人々が好きなことに好きなだけ没頭して、のほほんと暮らせる社会が理想なんじゃないだろうか。

人々がこなす仕事量が減っても、この世界全体の価値は減らないのではないか。

ぶっちゃけ、みんながみんな自炊をして、自分たちでご飯を作ることに満足してしまえば、世の中の飲食店は不要になるわけである。でも、その結果、この社会の価値が減ったのだろうか?飲食店が全て潰れたら、店を取り壊した分、空き地は増え街は広々とする。また、飲食店の従業員達にしたところで、別に死ぬわけではないのである。ただ、仕事がなくなっただけだ。この世界の価値は増えも減りもしないだろう。

不要な仕事をすべてぶっつぶし、浮いた労働人口を必要な仕事に回す。結果、一人一人の労働時間を半分以下に減らしてしまう。これが、僕が思い描く理想である。たとえば、塾をすべてぶっつした上で、塾講師を学校に投入する。もともとの学校の先生たちと元塾講師たちとで、教育にとって必要な仕事分け合うのである。午前中は、元々の学校の先生たちが授業を受け持ち、午後からは元塾講師たちが授業を受け持てばいい。

一体、どこのだれが、必要な仕事必要じゃない仕事を選り分けられるのか、という疑問もあるけれど、なんとかして、以上のような労働が生活の中心にならない、気楽な世界を実現できたら、と思う。