こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

日記

僕は、だいだい、毎朝、何かしらかの文章を書いている。ここ最近は、ブログのための文章を書いている。気楽にかける文章だから、というのが理由の一つ。書きたいことが溢れてくるから、というのがもう一つの理由。で、そろそろブログのための文章も、ひと段落つけようかなあ、と思っている。書きたいことや考えていきたいことは、まだまだ、山のようにあるはずなのだけれど、逆に書きたいこと、ブログを通して考えていきたいことが山のようにあるために、どこかで、ここが一里塚、ここが一合目のキャンプ地、みたいな、休息の地を設けないと、この先やっていけないなあ、って気分になっているのだ。終わりの見えない作業だから、どこかで休憩地点が必要だな、と。で、その一区切りを、100記事目、と決めている。きりがいい数字だからだ。それ以外に、理由はない。ただ、100を基準にしてしまうと、のこり13記事が、消耗戦になってしまうな、と感じる。人生の難しいところは、区切りの付け方、だと思う。同じことばかり、ずっと没頭しつづけることが性に合わない。だから、ある一定のところで終わりを設けたい。でも、人生において、終わりって、死だ。別に、僕は死にたいわけではなく、ちょっと休憩して、また戻ってきたいだけである。でも、この休むって感覚も難しい。やはり、理想の休息は死であり、まあ、死のアナロジーとして使えるのは、睡眠だ。睡眠時、僕たちは体も心も休ませているのだが、いかんせん、寝ている間の記憶がない。寝て冷めた瞬間、休んでいた記憶もないまま、活動が再開される。あれ、また同じ場面?という既視感。同じことの繰り返しが意識される。本当に、俺は進歩しているのだろうか、と不安が生じたり。まあ、同じことを地道に繰り返すことで、人は前進していくのだろう、とも思う。ただ、まるでレジャー施設で一日中、時間を忘れて遊ぶような休息も、心のどこかで求めているようだ。疲れ、というより、倦怠感を感じているのだろうか。レジャー施設での遊びにしたところで、幻に過ぎず、どこか虚しいわけだけれど。やがて虚しさを感じるとわかっていても、無意味なことに没頭したい、そういう気分である。

夏が毎日続いていると、微妙な温暖差が感じられる。昨日は、暑いことは暑いのだが、やや涼しい暑さだった。客観的な気温についてはわからないのだが、体感としては、おとといより涼しいな、と感じたのだ。考えて見ると、七月中旬。夏の暑さにも、だいぶ慣れてきたのだろうか。僕は台風が好きだから、台風のくる八月九月をまだかなまだかな、と楽しみ待っている。台風がくれば少しは涼しくなるだろうから。昨日、我ながら驚いたのは、暑さを楽しめていることだった。暑いと、疲れる。暑いとへばってしまう。昨日も、夏の暑さに昼寝を強いられていたのだが、それが面白かった。こう暑いなら、もう、なにもせんでええわ、と開き直ると、夏の暑さとは心地よいものだ。ただ、横になっているだけなのに、じわじわと汗を掻く。まるで、スポーツに熱中した後のような心地よい疲労感が全身に広がっていく。まさしく全身にである。スポーツだと、スポーツの種類にもよるが、体の局部を酷使するケースが多いのだが、夏の暑さは全身平等に疲れさせる。おとといネットでレンタルした動画を聞き流しながら、横たわっていた。思い込みが多分にあるのだろうが、夏の暑さのなか、武術の練習をすると、いつもより、やっている感じがでてくる。体の火照りを感じるというか。動かしている筋肉が、いつもより素早く火照っていく。日々の練習で、身体能力が開発されてきた証なのかもしれない。

ジャレド・ダイアモンドさんの「昨日までの世界」を流し読みして、やっぱ、現代文明の食生活は偏りがあるんだなあ、と思う。塩分と糖分とに。日本人の場合、塩分摂取量を減らすことは簡単である。醤油を買わなければいい。あと、そのほか調味料も。僕はもともと部屋がごちゃつくのが嫌で、必要な調味料以外、手元に置いていない。具体的には、味噌、塩、砂糖。砂糖はこの頃使っていないから、今あるものを使い切っても買い足さないだろうと思う。砂糖は、手製のもちを食べる際に使っていたのだが、こう暑いと、えいこらよいこらと餅を搗く気持ちにはなかなかなれないものだ。ぜんざい用に買った小豆も、開封されず、そのままである。で、本に影響され、早速、塩分摂取量を意識した食生活にしている。僕の場合、最大の塩分摂取源は味噌であろう。しかも、味噌をつけたご飯を海苔で食べるのが好き、時ているから、味噌プラス海苔で、それなりの塩分を摂取している気がする。味噌自体、1キログラムでたしか、118グラムくらいの塩分が含まれているそうである。僕は、これまでの経験上、1キログラムの味噌を二ヶ月前後で食べ終わっている。他に、味付け調味料がないため、大抵の料理に味噌を投入するためだ。また、他にも、バターチーズなども食すのだが、それらは、だいたい百グラム中、塩分1・4グラムとかなので、まあ、無視していいだろう、と思っている。味噌の摂取量さえコントロールすれば、よかろう。特に根拠はないのだが、一日3グラムくらいの塩分摂取量にしたいなあ、と思っている。なので、先月つくった梅干しをどのタイミングでたべようかしら、と思案中。はじめての梅干し作りで、塩をドバドバ投入してしまったのだ。梅干しの質量と塩の質量が一対一であった。以前味見したところ、相当しょっぱかった。味噌は何にでも合うから好きだ。しかも、うまいから好きだ。野菜につけてもうまいし、ごはんにつけてもうまい。味噌汁にしてもうまい。ただ、味噌汁にすると、相当濃くしないと味わいが減るので、ご飯ややさいにべたべたぬりつけるのがすきである。いっそ、海苔に味噌だけ塗って食べるのも美味しい。が、前記のように味噌にはそれなりの塩分が含まれている。うまいことはうまいのだが、まあ、一日スプーン一杯分くらい、を意識したらいいだろう。味噌でだいたい、2グラム前後の塩分を取り、バターあるいはチーズで一グラム前後の塩分を取る。その他食品に含まれている塩分は微量なので無視していいとして、これで、僕の塩分摂取量はコントロールされたことになる。各食品にどんな栄養価がだいたいどの程度含まれているかを知っておくのは便利である。まあ、ビタミンやミネラル類の把握になると細かくて面倒臭いけれど、塩分糖分タンパク質あたりを把握していると、なんとなく安心してしまう。卵一個にはだいたい6グラムくらいのタンパク質があるから、とか。実際、そういう数字を気にしなくてもいいだろう、とか、気にしない方が気楽でいいだろう、とか思ったりするけれど。世の中には、果物だけ食べて生きている人もいるくらいだし。

窓の向こう側が曇り空で灰色である。今日は久しぶりに一雨来るのだろうか。だとすると嬉しい。雨が降れば、その分涼しくなるだろうから。ほんの数週間前は、朝方や深夜涼しかったのだが、このところ、じっとりと生暖かい。少しずつ体も適応しているとはいえ、たまには、涼しく風吹く、中休憩のような日もあってほしい。

以下、ここ最近の生活の変化箇条書き。

夜間にゴキブリを見なくなった。地道なキャッチアンドリリースと、生ゴミを隔離した成果だろう。

近所の大学生(おそらく)を見かけなくなった。物音もしない。もう、大学は夏休みに入ったのだろうか。

粗大ゴミから無印良品っぽい椅子を拾って来る。座面が木なので、お尻が痛くなるのだが、デザインが好きで飾っている。

新しい仕事に研修込みで何度かはいる。福祉系の仕事なのだが、やはり、福祉系の仕事は気楽である。大学卒業してはじめた仕事が福祉系であるためか、金銭管理とか、接客とか、そういう能力がゼロのようだ。金などぽろぽろ落としても、そんなのどうでもいいだろ、とか思ってしまうし、接客も、まあ、客を殴りたくなることもあったから、向いていないのだろう。なので、新しい仕事にはひとまず満足しているのだが、その一方で、利用者のこと好きになれねー、という気持ちは相変わらずある。正確には、利用者全員のことすきになれねー、である。前回の福祉系の職場でも、だいたい五人に一人くらいの利用者のことが好きだったが、残りは、どうでもいいか、はっきり言って嫌いであった。みんな人間なのだ、人間だから、自分勝手さはどうしてもでてくる。自分勝手な人間は嫌いである。自分勝手に自分の欲望を訴えるだけの人間を、僕は好きになれない。もちろん、嫌いだからと言って、それで特別なにかあるってわけじゃない。

蒸しさつまいもをこのごろよく食べるのだが、やはりうまい。黒豆と一緒に蒸すとさらにうまい。

実家に帰りそびれる。

キリスト系の宗教入門書を読むが、分かるようなわからないような。なぜかイライラして来る。

仏典を読むと安心する自分がいる。やはり、仏教は一種の宗教なのだろう。意味がよくわからなくても、安心してしまう、というのは、条件反射であり、仏教を学べば、人生なんとかなるだろう、って思いがあるためだろう。

この頃、井上雄彦さんの「バガボンド」に魅力を感じなくなってきている。結局、やっていることって、格好良く戦っているだけじゃないか、と思ったりして。

将来に対して漠然と不安である。

仕事嫌だなあ、って気持ちが漠然と湧いている。

友人と食事をする約束を取り付ける。彼は、こちらがいきなり会おう、と言えば、大抵時間を作ってくれる。ありがたい友である。