こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

調理は必要なのか? 付、精進料理私見

調理は必要なのか?という思いが漠然と心に広がっている。全ての調理法に対して、不要、と断じるつもりはないのだが、人が生きていく上で必要となる調理法って、片手で数える程度のものなんじゃないか、っていうのが、僕のこの頃の考えである。具体的に言えば、花嫁修業だとか、料理教室だとか、実はなくなっても、この世界は一向に差し支えないのではないか?という発想。あったらあったでいいけれど、好きな人が趣味でやればいいだろう、という発想。

たとえば、食事を食べる人の健康を考えたら、油で揚げる系の調理って無用である。唐揚げ、天ぷら、磯辺揚げ。まあ、美味しいのは分かるのだが、でもよくよく考えて見たら、唐揚げや天ぷらや磯辺揚げ以外にも美味しい料理はたくさんあるわけだから、油物にこだわる理由はない。つまり、油で揚げる系の調理は、健康って観点から見ると、まるで無用だし、また、健康等観点からみなくとも、あってもなくてもどうでもよい調理法である。まあ、僕自身、嗜好品としては、重宝しているけれど。ただ、油料理も一種の嗜好品にすぎないということになる。

で、世の中の調理法の大半は、油料理とどうよう、あってもなくてもいいしろものなのではないかなあ、と思うのだ。寿司にしろ、各国の民族料理にしろ、精進料理にしろ。もちろん、だからといって、これら種々の調理法を一切なくしてしまえ、というつもりはないけれど。僕自身、インド料理が大好きだから、なくなると少し寂しい。まあ、少しだけれど。

ただ、その一方、各家庭の家庭料理へのこだわりや、家庭科の調理実習にそんな価値ってあるのかなあ、と思ったりする。逆に、食事に対して欲望のない人間、欲望の少ない人間ならば、あえて、それら料理方へのこだわりを一切捨てて、ただ食材を味わうことに意識を向けては、どうか、とも思う。寿司職人が何十年修業したとか、主婦の創作料理とか、正直どうでもいいだろう。彼らはただ、趣味として修業したり、工夫したりしているだけなのだから。寿司職人の修行も、主婦の工夫も、実は、あってもなくてもいい代物だろう。あったらあったでみんなおいしいとよろこぶし、なかったらなかったで、みんな他のことで喜ぶのだろうから。

また、精進料理が一種の作法と化していることに、違和感を感じる。僕自身、精進料理についてほとんど知識のないため、見当違いの指摘になってしまうかもしれないが、精進料理というのはただ単に、不殺生戒を守った食事という程度に過ぎないだろう。要は、仏教の戒律にかなった食事ならそれでいいはずだ。つまり、山盛りのみかんも、精進料理である。いや、「料理」ではないか。でも、少なくとも、精進食事である。なんだそりゃって造語だけれど。もっと具体例を増やそう。一房のバナナも精進食事のはずである。ぶどうもそうだ。ただ大豆を水で煮たのもそうである。卵かけご飯も、多分そうである。いや、卵料理を避ける場合もあるだろうから、卵かけご飯は違うだろうか。だとしても、たとえば、醤油かけごはんは、間違いなく精進料理だろう。栄養価的に、仏教修行とミスマッチかもしれないけれど。で、本来精進料理といえば、その程度のもののはずなのに、どういうわけか、この国では、一種の料亭ご飯、というか、一種のコース料理として定着している。別に、そういうありかたもアリだとは思うのだが、別に、種々様々な料理がお盆に乗っている、そういうしろものだけが精進料理ではないだろう。ぶっちゃけ、お金がなくて、肉類が買えず、豆腐ばっかり食べてる貧乏大学生の食事とか、もろ精進料理である。まあ、その大学生の目的は精進ではないだろうけれど。料理への過度のこだわりは、ただの煩悩だろう。まあ、その程度の煩悩、あってもなくてもどっちでもいいのだけれど。

3分クッキングなどで、手軽な料理方法が紹介されている。主婦はそれを喜び模倣する。でも、サツマイモと黒豆とエリンギをぶつ切りにしてただ水煮したものにバターを入れるだけ、の方が、おそらく3分クッキングで紹介される料理法より、楽ちんだし、素朴だし、実は美味しかったりする。栄養的にも工夫されている。また、精進料理としても適当である(いや、バターはダメなのか?でも、お釈迦様も乳粥飲んでいたしなあ。)。TVや料理峰で紹介されるお手軽料理などより、ただ素朴に目の前の食材を場当たり的に調理していく方が楽なんじゃないだろうか。切る煮る焼くで事足りるのではないだろうか。いっそ、ただ、ぶつ切りにした野菜を生でパクパク食べていいし、意外のバター単品を舐めるのも美味しい。僕が味覚音痴だってだけなのだろうか。いや、美味しさを感じている以上、味覚は働いている。

僕が何を言いたかったかといえば、たくさんの人たちが、調理法に対してよくわからないこだわりをもっている、ということである。で、もっといえば、そうした調理法へのこだわりが強くあるからこそ、外食をしたり、よくわからないファーストフードに依存したりする。冷静に考えれば、ファーストフードで五百円使うくらいなら、近所のスーパーでバナナ1房を二百円くらいで買って、その場で食べた方が、気軽だし、美味しいし、安いはずである。バナナ1房で腹が減るなら、2房食べればいいだけだ。料理とはかくあらねばならない、という無意識の思い込みが、僕たちを支配しているのではないか?たとえば、この世界には、中華料理、フランス料理、イタリア料理日本料理なるものが存在する、そういうさまざまな料理が区分けされて存在している、というのも一つの思い込みだろう。野生児の目で眺めれば、どれも食料という点で変わりはない。僕たちは、ついつい、「お腹減った、肉食べたいなあ」という素朴な思考を無意識的な偏見によって「中華料理たべたい」とか「たまには寿司食べたいなあ」という妙ちきりんな発話に屈折させている。

うまく伝わるかわからないのだが、例えば特定のアイドルAに性欲を感じることと、一人でいることに寂しさを覚えて身近な女性たちに心惹かれることとでは、似ているようでいて全然話が違うのである。前者は、特定のアイドルAと性欲の対象を絞り込んでいるようでいて、対象がぼやけている。なぜならば、アイドルAとの接点など、ないから。アイドルA=性的存在である、というのは、ただの思い込みだから。肉を食べたいから、中華料理屋を探す、という発想もこのアイドルAに心惹かれる状況に似ている。我ながら、わかりにくい例だと思うのだが。

「お腹減った、肉食べたい」と「お腹減った、中華料理食べたい」では、選択対象の幅が全然違うわけである。後者は中華料理にのみ食欲の対象を絞り込んでいる。でも、本来、すきっ腹をみたすためなら、別に中華料理じゃなくてもいいはずなのだ。特定の調理法にこだわると、頭が固くなってしまう。まあ、それはそれでかまわない、とは思うけれど。その反面、うんこやしっこを飲み食いしてもかまわない。苦いけれど。

結論部分だけ、無理やり節約術につなげると、そうした調理法へのこだわりを捨てると、自分にとって一番気楽で、かつ、健康的な食事が作れるようになる。で、そうした食事は、さまざまな調理法にこだわった場合よりも、なぜか金銭的費用がかからない場合が多い、のである。たとえば、野菜を生のままかじる場合と、野菜を天ぷらにする場合とでは、前者の方が費用はかからないのである。