こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

人が人に教わることへの疑い(というか教育関係と学習にまつわるメモ)

誰かから学ぶとはどういうことだろうか。

1)その誰かが教師の場合。2)そうでない場合。

2)とはつまり、直接教わっていない相手から、勝手に学ぶということである。相手のいいな、と思ったところを模倣してみたり。相手の、こりゃあかんはという行いや特徴を自分から覗き去ろうとしたり。あるいは、相手のふとした行動や発言などから、相手とは直接関係のないアイデアを得たり。といった場合だろう。相手のいいところを学ぶ。相手の悪いところを学ぶ。当の相手とは無関係な学びを勝手に得る。だいたいこの三パターン。

で、1)例えば、学校の曲位なのがそうだろう。この世界には、学校以外にも、さまざまな教育産業などがあるわけで、教師からものをおそわるという関係はいたるところに散見される。なら、教師とは何なのだろうか。教師は生徒に対して、どのような影響を与えるがゆえに教師と呼ばれるのか。問い方枯らして誘導的ではあるのだが、おそらく、教師が教師たる所以は、生徒に対して多少なりとも強制的な力をもっているから、だと思う。例えば、宿題を課す、とか、授業中騒いだら、一方的に叱責できる、など。教師と生徒との関係はそういうものなのだ、と言われてしまえばそれまでの常識な訳だけれども、一体、いつの間に、どのような経緯で、そのような関係性が生まれたのだろう。教師生徒関係は、1)教師の側によって制定される場合と2)生徒の側から制定される場合とがあるんだろう。1)の場合は学校教育などであり、2)の場合は武術等の弟子入りや宗教への入信など。1)の場合常識による洗脳が必要であるし、2)の場合力や超越性への帰依が必要となる。ここまで考えてくると、教師生徒関係を通して人からものを教わることに不気味さを感じてしまう。1)の場合、常識に洗脳されており、冷静な判断は(冷静な判断なんて存在するのか不明だけれど)不可能だろうし、2)の場合も、超越性や自分よりはるかに力のある存在に対して、判断することができない。

教師生徒関係を通して、誰かから何事かを学ぶ場合、その学びによって、自分がよりよくなるって予感が必要だろうと思う。でも、その予感の根拠がよくわからない。例えば武術の場合、武術師範の元で練習に励んだら、強くなるだろうけれど、別に、強くならなくてもいいはずである。じゃあ、なぜ強くなりたいのか。それは自分自身に対して抱く幻想のためなんだろうか。力があり、格闘に優れた自分こそ本来の自分であり、力のない弱い自分は、自分じゃない、みたいな思い。弱いままじゃ満足できないから、自分より強そうな人に教えを請う。

じゃあ、なんで満足できないんだろうか。満足って言い方もなんだか違う気がするけれど。不満足だから先生を探し、教えを請う。ある種の苦手意識のようなものが存在している。その苦手意識は、おそらく、外部環境からもたらされる。内発的な感情ではないだろう。たとえば、武術ならば、強くなければ生き残れない、とか、強くなければ大義を守れない、家族を守れない、といった危機感を煽る過酷な環境。そうした外部環境によって触発された願望として、上昇志向が生まれ、外部環境によって生まれた環境だからこそ、外部環境から解決策をもらおうと先生を求める。自分より先に生まれた、という点でも、先生は外部環境である。

一方で内発的な運動というか、内発的な意欲もあるだろうと思う。子供達の鬼ごっことか。でも、内発的な意欲に起因する遊びはいくら繰り返しても、似たような結果が続くだけなのだろうか。その内発的な意欲は、ただひたすら同じことを繰り返すって特徴を持つのだろうか。

教師生徒関係を通した学びだと、結局外部からのストレスによって動機づけられているので、外部ストレスを越えた発展には至らない。かといって内発的な意欲も、ただそれがすきだからやるやり続けるという構造だから、同じ場所をくるくる回り続けるだけのようも感じる。もし、本来感じられるはずのない外部環境を感じ取り、その結果学びへの意欲が生まれ、その結果、ごく普通に感じられる外部環境を越えた学びが得られるだろう、と考えたとしたら、それはただ超越性に魅入られた宗教心ってことになる。それはまあ、それでいいんだろうけれど。

やや話はそれるけれど、先生について学びたい、あるいは、学ばなければならない、と考える場合、それは内発的興味でない場合が多い。結局のところ、自分一人で独学するほど興味がわかないから、わざわざ先生につくのであり、となると教師生徒関係は、一生涯の付き合いとはなり難い。結局外側から植えつけられた欲望にしたがって、教えを請いにやってくるわけだ。そんな教育のあり方をつまらない、と僕は感じてしまう。

かといって内発的な興味に突き動かされて学び続けているもの同士が、互いに結びつく方法があるんだろうか。せいぜい、お互いにお互いを面白がりあうくらいだろう。内発的興味に突き動かされるってことは要は、自分を自分で承認しまくるってことだろう。でもって、その事実に満足しきっている。今更、他者から承認されても、特別感情が動くわけでもないだろう。かといって、完全に他者を省いてしまうと、寂しくなる。内発的な学びの場合、他者とはただギャラリーに過ぎないのだろうか。だとすると、プロとか、アマチュアとかの差はなくなってしまう。自分と他人という差しかなくなる。

生きていく上で、ありとあらゆる事柄が刺激となりうるわけで、じゃあ、学びにとって最適の刺激などありうるのだろうか。どんな刺激に対しても何かしらかの学びは生まれる。特定の他者と関わることが、特別の学びなのだ、と思える場合があるのだろうか。そんな場合があるとしても、それは、ただ常識や超越性への帰依のためではないのか。誰が優れていて、誰が優れていないかの判断も外部からの刷り込みに過ぎないのではないか。そうした刷り込み抜きにして、学びを触発し合う関係は築けないのか。

学び、を考える際、どうしても、学び終えた後、というか、学びによって何かしらかに到達した姿を想像してしまう。でも、本来学びとは、どこへ到達するかも予測不能なしろもののはずである。この世に生まれた以上、どのような経路をたどって、どのような最期を迎えるかは、誰にもわからないはずであるから。で、教育とか、教師生徒関係とは、そのどこへいくかわからないネズミ花火のような人間の運命にある一定の傾向をつける効果があるのだろう。でも、本来学びとは、どこへ辿り着こうとも、学びのはずである。そして、他者とはただ関係に過ぎないだろう。他者と関わることによって、他者と関わる旅ごとに、人は生まれ変わるのだろうか。他者と関わることで、なにがしかのパラメータが変化するのか。

潜在的な教師生徒関係なるものも存在するだろう。命が生まれる前から施された教育が。別にスピリチュアリズムではなく、単に人間社会、人間の文化について語っているだけなのだが、生まれる前から、僕たちは人間であるように教育済みなのではないか。

他者はただ関係に過ぎない、と断じたところで、やはり、一緒にいて快い他者と不快な他者とがいる。不快な他者と一緒にいると生産性が下がり、学びの効率も下がる気がする。そんな場合でも、他者と他者の間に差異はないのだろうか。いや、他者同士に差はあるだろう。でも、それはただ差にすぎないはずだ。差がいくら集まろうとも、尺度にはならない。でも、ならなおさら、どうして快不快の違いが生まれるのだ。この人と一緒にいれば成長できるという予感が生まれるのだ。

これまで僕が何かを学ぼうと決意したのは、いつも外部からのストレスゆえだった。学び始め、この学びは面白い、続けていこう、と思い定めたものはいくつもあるが、僕の内面から学びたい、と思って始めたことって一つでもあるのだろうか。たとえば、釈迦にしたところで、この世に苦が満ち満ちているのを発見したからこそ、修行を始めたのではないか。一方、たとえば、児童虐待を受けたがゆえに、その恐怖を克服するために、例えばボクシングを始めるなどというケースは、共感や同情はしても、どこか不毛な印象を受ける。問題の本質はそこにはないだろう、という感じがする。たとえば、自分の頭の悪さに嫌気がさし学校の勉強に没頭する、などもそうだろう。問題はそこにはない。

内発的な学びは、一見無意味に移るだろう。子供たちの鬼ごっこみたいなものだ。でも、そこには学びがあるはずである。足の速い子足の遅い子は、事前に決まっている。だから、鬼ごっこの結果も、だいたいいつも似たり寄ったりになる。足の速いAくんが最後まで生き残る展開。足の遅いBくんが最初に捕まる展開。など。でも、その同じ繰り返しの中にも、なにがしかの空想というか、社会性が生まれている気がする。でも、そうした内発的な学びは、外部へと通じないのだろうか。外部へ通じる学び。実益がある学びばかりが称揚される世界である。逆に、実益のない学びが称揚されるなら、それはもはや実益がない、とは言えないわけだが。僕の学びは、いったい、どこの何に通じているのか。何のも通じていないのか。何にも通じていなくてもいいはずである。が、外部世界は、すべての学びを外部世界に通じさせようとする。たとえば、小説やげ術の世界のように。

本来人間は何者とも繋がっていないはずである。人間の学びは何事とも繋がっていないはずである。一人で勝手に学び、一人でその学びに歓喜しているはずである。が、貨幣経済によって交換経済が強化された。何事にも通じていなかったはずの学びが、展示されるようになる。僕たちは、芸術作品と、視覚聴覚などの五感や感性によってではなく、貨幣という物質によって繋がっている。貨幣がなければ、美術館や映画館などあり得なかったわけだから。でも、それは内発的な学びを無理やり外部と繋げたといいうことだ。ほんとうにそれでいいのかしらんん。

内発的な学びは、本来、盗み見ることもかなわない。

そもそも、本来、小説とは、小説という名称もないままに存在するしろものではないのか。名前のないまま存在しうるしろものではないのか。哲学なども。

名称と貨幣と場の共有によって、内発的な学びは暴露される。

あるいは歴史や史料なども内発的学びを暴露する。

歴史に名前を刻むとは、歴史の中に埋められるってことでもあるだろう。で、そこまで考えてくると、結局理解されないことが理想みたいな話になってしまいかねない。で、それでもやはり理解はされたいから、人間以外の存在、外部の外側、つまり超越的存在を想定したくなる。なぜならば、人間にとって外部とは他の人間のことであり、外部の人間に対しては、一方的に働きかけることができないからだ。外部の人間からは、相手も自分に働きかけるし、自分も相手に働きかけるという双方向の関係しかなりたたない。が、超越的存在は、実は、僕たちに一切働きかけない。逆に言えば、僕たちは僕たちの側から一方的に働きかけ、自分自身を作品として見せつけることができる相手は、超越的存在に限られる。

結論とかないけど、この辺で終わっておこう。

人が人に教えることの疑義を提示したかった。

なぜ、人は自分で学ぶ力を備えているのに、他者からものを教わるのだろう?なぜ、そのような教師生徒関係が、常識化しているのだろう?という疑問。