こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

教育産業の自由化

教育が独占的に行われている現状は、納得半分、不思議半分である。

1)そもそも、教育は誰でも施すことが可能な無形資産であるから。

例えばの話、花屋の店員は花についての知識を知人や友達や子供達に教えることが可能である。また、他の職業人においても同様。ラーメン屋の店主もラーメンの作り方を教えられるし、そのほか、プラモデル屋でも、社会活動家でも、まあ、諸々。

が、教育とは本来、どこの誰でも参入可能な産業(なぜならば、教育内容も教育成果も無形資産だから)なのだが、どういうわけか、教育=学校という制度的常識が蔓延している。

なので、教育が学校制度によって独占的に行われている現状に対して、僕は強く、不信感というか、不可思議感を抱いている。

2)ただ、誰でも彼でも子供達に教育を施しまくると大変である。下手をしたら社会的犯罪へつながる。危ない大人もいるのである。また、ラーメン屋にしたところで、ラーメンの作り方を教えたら、みんなわざわざ店にラーメンを食べに来なくなる。なので、ラーメンにまつわる知識を独占したがる、当然と言えば当然である。だから、まあ、この現状についてそこそこ納得はしている。

3)でもなあ。やはり息苦しい。学校教育が教育のただひとつの冴えたやり方っていうのが、どうにも納得できない。小学校を出て、中学校を出て、高校を出て、大学を出てっていう順当な道がどうにもむず痒い。大学を出ないと一人前じゃない、といった風潮も(今では薄らいでいると思うが)嫌である。そして、大学を出たら就職先の会社で洗脳じみた研修が待っている。洗脳的教育は卑怯である、という発想がないのだろうか。

誰かから何かを教わること自体、僕はあまり好きじゃないのだが、教育は本来誰にでも可能という観点に立って、教育の自由化をすすめられないものかしら、と夢想してしまう。大学の入試問題などきわめて恣意的であり、そもそも、教育が独占されているから、ふるい落としのための試験が必要となるのである。そもそも、事前にふるい落す根拠ってそんな明瞭なものなのだろうか。人は他者を一方的に評価することができない。なぜならば、他者のことを百パーセント知ることが不可能だから。だから、試験なるものがとりあえず、あるのだろう。最後の審判とか閻魔大王の裁きとかそういう風にはできないから。あとハリー・ポッターの寮分けみたいなのも。結局、わからない、人の評価などできない、というお手上げの状態が入試制度の現状なのだろう。

とはいえ、教育には二つの目的があって。1)今まで通りの社会を回す人材を育てる。2)これまでにない発見をする人間を保護する。という二つの目的があるのだろう、と思う。1)に関しては、教育産業を自由化すれば、全うできるだろうが、2)に関しては、それだけでは不十分だろう。理想は、全人類が想像性を持ち、常に新しい発見を発明を繰り返しまくるそんな創造性に満ちた社会を築くことなのだろうが、そのためにはどんな仕組みが必要なんだろう。途中だけど、終わり。