くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

焦りの感情について。 またはレポート試験対策

好きなことだけやっていれば、焦りは無くなるのではなかろうか。焦りがなくなれば、常に充足感に満たされるのではないか。
なんてことを、昨日から考え、試しにやって見ている。なかなか快適である。
考えてみると、焦りという感情は外部から植え付けられるようである。一般的には学校だろうか。○頁をひらいてください、とか、明日、宿題を提出しなさい、とか、言語によって、生徒の行動を規定する。真面目な生徒は、教師の言葉通りに行動することを通して、他者から命じられたことは素直に行動するという思考パターンが育まれて行く。で、その場合、何をするかも、いつまでにするかも、どの程度のものを仕上げるかも、どのような方法でやるかも、どこでやるかも、外部、他者から規定される。また、規定されているらしいと感じられる。で、それが焦りにつながるのではないかしら、と感じるのだ。焦りを感じると、時間を有限に感じる。時間がない、と思うようになる。時間がない、ということは、自分らしく生きる時間もない、ということになる。そうなると生きている心地がしなくなり、鬱々としてくる。少なくとも僕は。
よくよく考えて見たら、時間とは、常にあるものである。今この瞬間も時間は流れている、とみなすことはできるし、昨日のあの瞬間も、明日のあの瞬間も時間は流れているはずである。となる、常に時間の流れは存在している。にもかかわらず、僕たちは、時に、焦りの感情のために、時間がない、間に合わない、と感じてしまう。間に合うとか、間に合わない、とかどういうことなのだろうか。時間がないって、あるのに、ないって、どういうことなのだろうか。
で、焦りがなぜ生まれるか、というと、複合的な命令を下されるためではないだろうか。「〇〇をしろ」だけでは、おそらく焦りは生まれないのだ。百年後にやってもいいわけだから。でも、「〇〇を今日中にしろ」だと、焦りが生まれる場合がある。やること、と、やり終わる期限が決められているから。実質二つの命令を下された結果、うまいことバランスが取れなくなるのだ。命令にはいくつかの種類があり、以下、思いつくままに列挙すると、1)何をやるか。2)いつまでにするか。3)いつするか。4)どの程度するか(完成度)。5)どのようにするか。6)どこでするか。7)誰とするか。8)誰の(何の)ためにやるか。9)どのような順でやるか。などだろうか。人が人に命令を下すこと自体、特殊な場合(例えば、人は殺すな、や、交通法は守れ、といった人々の生命を守るためになされる命令)を除けば、よく、意味がわからないのだが、これら様々な要素を組み合わせた複合的な命令になると、さらに意味がわからない。
なぜ、複合的な命令を下されると、人は焦りがちになるのだろうか。僕の考えというか感じでは、複合的な命令を下されると、その命令を根本的に否定しない限り、人は少なからず、無意識的にであれ、焦るものである。動物でもそうだろう。焦りの状態が常態化しているために、実は自分が焦り続けている事実に気が付けないだけなのだ。そもそも、焦りの感情が、みんなからなくなれば、みんなもっと遅刻しまくるに違いない。皆勤賞などあり得ない話になる。2)のいつまでにするかは、寿命とつながる。おそらく、命の期限という寿命自体に焦りを感じる存在はいない。が、命の尽きるまでにあれもやりたいこれもやりたい、と思い始めるつまり1)と2)と9)などが組み合わされるから、焦りが生まれる。1)〜9)それぞれ単体の命令とは、生命として根源的な何かと結びついている(だろう)。1)の単体命令は使命とでも言えるだろうか。2)は寿命。3)は生命維持。4)は、成長と老い。5)は美学。6)は共同体など。7)は自我。8)は愛情。9)は、主観的な時間。ちょっと強引な感じもするけれど、それぞれの単体命令は、僕たち人間の根源的なあり方を示してくれる。(思いつくままに書いているから、文章脈略ないなあ。まあ、いっか。)で、なぜ複合的な命令を下されると、人は焦りがちになるのか、だが、1)〜9)は、それぞれ、本来つながり合わない、本来別次元の問題だからじゃないだろうか。何をやるか。といつまでにやるか。は実はまるで関係ない。期限までに達成できなくても、いつか達成できたならば、それは達成だし、人間なんだかんだいって、1日に一度は寝なくちゃいけない。何をやっているかに関係なく、何もやらない休憩時間は訪れるのである。何をやるとか関係なしに、いつまでやるか、は規定されている。で、それぞれにこのような無関係な関係性が認められるのではないかしらん、というのが、文章をを書きながら即興で考えた結論である。
まあ、細かい話は終わりにしよう。要は、他者からの命令は、たいていの場合複合的な命令である。で、その複合的な命令によって、僕たちは心理的に矛盾を感じ、その矛盾の解消のために、バタバタする。で、そのバタバタする感じが焦りって感情である。となると、単体命令にのみ従って入れば、焦りは感じないはず。で、単体命令の代表的なものが、好きって感情だろう、と思われる。好きって感情がこじれてストーカー的行動に出てしまうケースもあるが、その場合は、好き、以外に、支配欲だの名誉心だのといった不純物が含まれており、複合命令化しているだろう。つまり、純粋に好きって感情じゃないと単体命令ではない。で、その単体命令に従っていれば焦りは生まれず、焦りを感じなくなれば、常に、あるものをある、とみなせるようになる。たとえば、焦っているときは、時間がない、と感じるものだが、時間とは常にある、ものなのである。となると、焦らなくなったら僕たちは、常に時間などをふくめた、有るものを有ると認識できるようになるわけである。となると、その有るものが有るって感覚が、充足感なんじゃなかろうか知らん、と思うわけです。
いいこと書いたなあ、と思う反面、造語のオン・パレードでわけのわからんもの書いたなあ、という感覚もある。まあ、楽しんでもらえたら幸い。哲学系のレポート試験の元ネタにでも使ってください。