くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

節約術の根本 悟りとオペラント条件づけ

節約術について、僕はもう何も書かなくていいんじゃないかなあ、と思ったりする。いや、まあ、アイデアは日々生まれてくるので、ポツポツ書いたりするんだろうけれど。

そのように思うのはなぜかっていうと、一つは、すでに書いた文章で、ある程度僕の考えていることは伝わりうるだろう、と勝手に判断したから。あとは、読まれるか読まれないか。受容的に読まれるか、否かの問題だろう。読みやすい文章に改める、という戦術はありだが、内容を覆すことはないだろう。で、もう一つには、僕の中で節約術と悟りとが繋がったから。簡単に言ってしまえば、悟ってしまえば、節約なんて自然とできるようになるよね。あるいは、悟った状態が節約そのものだよなあ。みたいな発想。ちなみに、僕は悟っていない。ここでいう悟りは、まだ悟っていない僕が、現時点で悟りってこんな状態かなあ、と想像している、想像上の悟りである。なので、ズレというか、ブレがあるとは思う。

悟りという状態は、きっと一言では説明できないし、おそらく言語的な説明は不可能であろう、と思う。けど、部分的に、悟った状態を一面的に説明することは可能なのではないか、と思う。で、その一面的な説明とは、悟った状態とは、煩悩に縛られていない状態。煩悩を冷静に見つめ、息を止めたり再開したりするように、煩悩を自在にコントロールしている状態ではなかろうか、と思う。まあ、その程度の状態は、仏というより菩薩だよ、って感じもするんだけれど。仏の状態とはもっともっと上の状態だろう、とも。上とか下とか、そういう思考は仏にはないだろうけれど。

で、節約の反対、浪費とは何か、という煩悩に流されている状態である。ここでいう浪費とは、なにも金銭的な浪費だけではない。ただひたすら一日五、六時間くらい人の悪口を言いまくる、とかも、浪費だろう。何の浪費であるか、は一言では言えないが、たとえば、人間関係の浪費だろうし、カロリーの浪費でもあろうし、時間の浪費でもあろう。まあ、時間や人間関係やカロリーが自分自身に属しているものとみなせるかどうかは、判断に迷うが。ただ、浪費とは、自分が所有しているらしいものをみだらに消費するってことでもあるだろうが、自分の周囲にあるいろいろなものをみだらに傷つけたり、みだらに独占したりすることでもあるだろう。話が少しずれているけれど、つまり、浪費=煩悩の発露、である。つーことは、煩悩を抑制できれば、浪費は原理的に起こらず、=節約の状態である。というわけで、僕の中では以下のようにつながる。悟りの境地=煩悩をコントロールできている=浪費は起こらない=理想の節約。悟りの境地は節約にのみ還元できるものではないだろう。なので、ここで使用した=は→を代用したほうがいいかもしれない。

話は変わる。オペラント条件付けについて。オペラント条件付けってのは心理学の用語で、正直俺も正確な意味は知らない。ずっと昔「心理学概論」なる授業にふらりと立ち寄った際、聞きかじった言葉だ。〇〇したら褒められる、ご褒美が出る。だから、ますます〇〇する。××したら叱られるペナルティがある。だから、ますます××そういうまあ、一種の教育によって得られる反応づけってのが、オペラント反応ってことでいいんだろうか。で、このオペラント反応、僕たちの日常において、僕たちの僕たちの煩悩と結び付けられる形で、多数埋め込まれている。他者によって埋め込まれたオペラント反応もあれば、無意識のうちに、自分自身で埋め込んだオペラント反応もある。

たとえば、「コンビニの前を通るとどうにも腹が減ってしまう」というのもオペラント反応の一種だろう。幼少期、コンビニの前を通ると何割かの確率で、両親がお菓子を買ってくれたのだろう。また、自分自身金が自由に使えるようになると、コンビニの前を通るたびに、何かしら買い食いしていたのだろう。結果、腹が減ると無意識のうちにコンビの前を歩くようになったり、あるいは、たまたまコンビニの前を通っただけで、逆に腹が減った感じがして、ついつい買い食いしてしまったり、といったことを繰り返すだろう。繰り返すたびに、条件付けは強化される。

で、そのような条件づけがなされているゆえに、気がついたら、コンビニで頻繁に買い食いしており、散財しているって場合が起こりうる。

まあ、何が言いたいのかと言えば、自分自身にかかっているもろもろのオペラント条件付けを理性の力で引っ剥がしていけば、自然節約術は叶うだろう、ということ。

煩悩と無意識的に刷り込まれた条件づけを観察してその存在を知ること、それが節約術の根本なんじゃなかろうか、と思うわけです。根本を語った以上、もう語ることはない。