宗教に入る前に

僕は仏教が好きだ。仏教から様々な影響を受けているし、直接仏教について書いたり話したりするのも好きである。西村賢太さん風に書けば、僕はゴータマさんの歿後弟子を自認しているし、仏弟子である以上、いずれ悟るものと考えている。

が、その一方で、というか、だから、と接続したほうがいいのだろうけれど、仏教を元ネタとしたカルト(あるいは既存宗派)には、警戒している。警戒というか、ただ単に近づかない、というだけなのだが。

カルトの定義は、様々あるのだろうが、仏教系のカルトに関していえば、それは、不勉強な人々、あるいは、勘違いした人々、ということになると思う。仏教について勉強した上で、あえて、本筋から外れてしまうというケースもあるのだろうが、それは稀だろう。なぜならば、だとすれば、わざわざ勉強する意味がないからだ。

仏教というのは、一種の哲学、思想である以上、仏教を自認しながら、反仏教的なことを語ったり、行ったりするのは、単に、学んでいないか、学びが足りないか、の二択しかないように思われる。また、これらは仏教系カルトの主催者のみならず、仏教系カルトに心惹かれる人々にも当てはまるんじゃないかなあ、と思う。自分自身でしっかり学んでいない、あるいは、学びが足りないから、中途半端な人の後を追いかける。逆に言えば、しっかり学んでさえいたら、世間一般に流通した宗派によらなくてもカルトではないだろう。

ちょっと回りくどい言い方になっているのだけれど、どうして、自分自身しっかり学んでいないのに、自信満々な他人に教えを請うのだろうか、ということ。簡単に言えば、何かしらの宗教に、安易に入信する人たちのことが心配(いらぬお世話だとは思うけれど)。仏教を学ぼう、という際に、どうして、よく知りもしない他人の元へ行くのだろう。まず本を読むとか、近所の寺へ行くとか、いろいろあるだろうに。本にしたところで、変な本はたくさんあるだろうし、他人から教えてもらうことには変わりないけれど、リスクの大きさが違うだろう。住職にしたところで、適当な奴もいるけれど、一応、所在地がはっきりしている分、リスクは小さい。また、最低でも、仏教系の大学の学士号を取得しているか、何かしらの寺で修行経験があるはずだ。

他人の行動にとやかくいうのはお門違いなんだろうけれど、「人から直接教えてもらわないと自分には理解できない」とか「どうせ学んでも自分には理解できない」って気持ちのゆえに、なんらかの組織へ心が向かうなら、なんだか、寂しいなあ、と感じてしまう。人々が組織を形成する心理的動機には、おそらく、劣等感や自己否定的な気持ちが関わっているのだろう、と思う。でも、そうした劣等感や自己否定的な気持ちはあくまで自分の気持ち次第であるし、「自分はできる」って気持ちで取り組まないと、何事もつまらないし辛い。

教える教わるという関係に、何か歪みを感じてしまう。釈迦も弟子たちの質問に答えたり、教えの言葉を残したりしているわけだけれども、教わるということは何もロボットのように唯々諾々と他者に付き従うことではないだろう、とも思う。

うーむ、まとまらないが、僕がひとまず書きたかったことは、自分で学ぶ前に宗教に走るのは、なんか変だよ、ということ。自分自身で学んでもいないのに、どうして、その宗教に救いがあると見做せるのだろう。