日記 100

日記。

さて、100記事目である。思っていたよりも、早くに達成でき、嬉しい限りである。百記事が記念というのは、ただ単に数字のキリがいいからであり、また、ブログに載せるための文章を書くうちに僕の中で、なにかしらかの心理的精神的知的変化が見られたためだ。100記事以前と101記事以降とで、僕は目に見えない変態を遂げようと思っている。

まあ、僕自身の気持ちの問題、である。何事も、気持ちの問題。

そういえば、これは日記なので、日記めいたことも書いておきたい。今朝方は四時に目覚めるが、体の疲れを感じたため二時間ほど二度寝をした。やはり、普段早起きしていると、疲れた時に、心置きなく二度寝ができるので気持ちが良い。二度寝時は、気持ちよく睡眠したかったため、エアコンにて室温を調整した上で眠った。おとといあたりから感じているのだが、夏の暑さがやや和らいだようだ。蝉は本格的に鳴き始めたが、最盛夏はすぎたのかもしれない。夏は、気がつけば去って行くのだろう。とはいえ、熟睡するには暑かったので、朝方エアコンをつける。ちなみに、肉体的に疲れていたのは、昨日、武術道場に通っていたため。練習中は特に疲れを感じないのだが、帰りの電車や帰宅後、睡眠中などぐったりしていた。練習の成果だろう。嬉しい限りである。また、柔軟体操時コツを一つ発見した。そういえば、練習中やや天狗になりかけているなあ、とも感じる。自分に自信があるのは良いことである。でも、まだまだ成長段階。次を目指したい。

ここ数日、なんだかんだでブログ用の文章が快調である。やや、文章のつながりが飛躍しているなあ、と感じているが、書いてある内容がいいのだから、そんなものアバタにエクボで放置している。自画自賛である。文章が快調、アイデアも湧き上がるのは、やはり100回目で一区切りをつけると決めたからだろうか。それとも、100回目以降に心が傾いているためだろうか。おそらく後者であろう。おわりやゴールテープを眺めただけじゃ、人はやる気を起こさない。ひと段落つけた後、その先が見えているから、さくっとひと段落つけ、次に行こうと思うのだろう。

昨晩は、夕飯に、芋と豆とキャベツのバター鍋、および、トマト(大)五個を食べたのだが、トマト食べ過ぎだったようだ。お腹が膨れ、少し気持ちが悪くなる。が、美味しかった。

今朝は、朝食に鍋いっぱいのお汁粉を食べる。おいしかった。お腹が膨れた。食事後しばらくして床の拭き掃除をしようと思ったのだが、四つん這いになると戻しそうになり休止。食事後は、おとなしく座っておくのが良いようだ。朝食にお汁粉オンリー。好きなものを好きなだけ食べられるのは幸せである。

この頃、母との電話にはまっている。いや、一時期はまっており、今は、冷める最中だろうか。ともあれ、母との電話を楽しく感じていた。学生の頃も、よく母と電話したものだ。まあ、あの頃は、同級生や教授の悪口をいうためであったが。この頃はめっきり悪口を言わなくなった。他人に対する興味が減ったのだろう。また、悪口を言わないように心がけているせいもある。たまに、ふつふつと怒りが湧くこともあるが、時間を置けば、忘れてしまう。

さて、昨日から今朝に関してのあらまし終了。

今後について。といっても、わざわざ文章化して、人に告知することでもないだろう、とも思うが、まあ、僕がそうしたいからそうしているだけである。勝手にやろう。

ブログに関しては、しばらく、一ヶ月が数ヶ月かしらないが休止する予定。なぜか。僕は、あまり複数のことを手広くやれるたちではないからだ。また、100記事ほど書けば、まあ、僕の考えていること、僕が言いたいこと、僕が考えていきたいことの、ほんのさわり程度は伝えうるだろう、と思うからだ。また、ブログとは無関係な文章を書きたいから、でもある。文章を書くことは、僕の生き方、と繋がっている。が、ブログは、そのための一つの手段、なのである。毎日ブログを書き続けることで、精神的な変化も期待できるだろう、が、ブログとは関係なく文章を書くこともまた、僕の成長につながる。また、文章を書くことのほかに、文章を読むことにも集中したい、というのがある。やはり、いい文章を書くためには、情報の摂取が必要である。そのためには、これまでにない体験をする、か。人に話を聞きにいく、か、本を読む、か、だいたいこの三択である。それぞれを並行して行なっていきたい。僕にはやりたいことがたくさんある、ゆえに、ブログは活動期と休息期とを明確に持ち適当に付き合っていきたい。

また、僕の中で、100回目までのブログ記事と101回目以降のブログ記事とでは、趣の違うものにしたい、と思い始めている。なぜそのように感じ始めたかと言えば、メッセージ性の強い文章を書くうちに、僕の中で興味領域が変わってきたからだ。率直に言って、節約術に関しての記事は、もう十分かな、と思っている。また、社会批判的な記事も、だいたいこのくらいで十分かな、という気持ちだ。いずれこれらに種類の記事も再開するかもしれないが、今、僕の心に芽生えているのは、哲学的、思索的な記事をより多く、より深く、より大きく書きたいという気持ちである。哲学的思索的文章とは何か。それは、僕以外には決して書けない文章である。つまり、思考に思考を重ねた結果、これまで誰も考えなかった領域まで思考を広げ、その思考を文章化したい、のである。哲学的思考とは、つまり、これまで誰も考えなかった最先端の領域について思考するってことである。アリストテレスだって、ヴィトゲンシュタインだってそうだった。

また、101回以降は、記事と記事の間により連関をもたせたい、と思う。記事と記事との間に有機なつながりをもたせ、一つの全体像を、いや、見ようによっては複数個の全体像を築くのである。具体的な方法としては、記事と記事の間で参照、引用、補足説明を行うと言ったところ。読み手としても、記事一つ一つがてんでバラバラに書かれるよりも、てんでバラバラに思いつくままに書かれた文章軍が、引照等によってゆるくつながりあっている方が、謎解きのようで面白いだろう。

以上、未来の事柄であり、言ってしまえば夢である。

が、夢を見るのが好きである。なぜならば、僕の見る夢はいつでも壮大だからだ。

それでは、またいつか。