こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

家族のために働くってこと

家族のために働く、って考えは、実は、相当にクズな考えなんじゃなかろうか、と私は思う。

家族のために働く、家族を養うために働く、家族にいい思いをさせるために働く、両親に楽させるために働く、夫婦の老後の備えのために働く、子供に良い教育を受けさせるために働く、これらを総じて世間では「家族のために働く」と称する。が、この考え相当にクズである。

なぜか?端的に述べよう、侮蔑を込めて述べよう。「どうせ、アイヒマンだって家族のために働いていたんだよ。バーカ」アイヒマンさんのことはよく知らないけれど、彼にだって家族があり、彼の儲けの幾らかは家族のために使われたんじゃないかなあ、と思う。まあ、アイヒマンさんことは一切知らないけれど。が、おそらく、アイヒマンほか、第二次世界大戦ナチス党のもと数々の「非人道的仕事」に従事した人々にだって家族はいたのだ。で、そうした「非人道的仕事」で得た稼ぎで家族を養っていたはずなのだ。

そんな当たり前のことに多くの人々が目をそらしている。バカじゃないのか!と若造の私が憤るのも仕方がない。バカじゃないのか!バカじゃないのか!バカじゃないのか!

家族のために働くとか、労働の目的は自分を含めた家族を養うためだ、などと言う発想は、ほんとうにクズである。なぜならば、その等の労働がクソのような仕事、つまり、社会に害悪を撒き散らすだけの仕事である場合がありうるからだ。つまり、労働において、何よりも重要なことは、稼ぎでもなく、家族が食っていけるか?でもなく、社会の役に立つ仕事か否か?に尽きるのに、ほとんど誰もこの点を見逃している。馬鹿め。

十分な収入が得られず、家族が養えないなら、共働きする、とか、公的扶助に頼る、とか、一家離散する、とか、といった対応を取れば良いだけだ。

家族のために働く、という文句は、本来はクズのスローガンである。なぜか。「家族のために働く」という文句は最悪の大義名分になりかねないからだ。内心「こんな仕事したって自然環境壊すだけだし、誰の役にも立たないよなあ」と思いつつも、「でも、家族のためだから、頑張るぞ!」って馬鹿じゃないのか。家族より自然環境の方が大事だろう。否、自然環境を大事にしつつ家族も大事にする道を模索すべきだろう。なぜ、その当たり前の発想へ至れない。糞が。脳みそうんこ野郎が。

時折、クソポップミュージシャンどもは「家族のために働こうぜ」的なキャンペーンソングを披露してくださる。奴らの脳にはぼうふらが湧いている。奴らは、自ら思考すると言うことをしない。奴らは、ただ、自分たちの楽曲を販売し、自分たちが儲かることのみに腐心している。もちろん、クソじゃないポップミュージシャンだっている。というかそちらの方が大多数だろう。でも、まあ、三対七ってところだろう。そこそこいるのだ。

労働には、いい労働と悪い労働があるんじゃないかなあ、と思う。で、「悪い労働つったって、金が儲かるんだからいいだろう」とか、「その金で家族養っているんだからいいだろう」って身勝手な言い訳を重ねて、ある人々は悪い労働に勤しんでいる。

そんなんでいいのかなあ、って私は思ったり思わなかったりする。

金なんてなくたっていいんじゃないかなあ、と。

貧乏でもいいんじゃないかなあ、と。

ボロ切れ同然の服着てても、風邪引かなかったらいいんじゃないかなあ、と。

何度もなんども読み込んで擦り切れた本って格好いいじゃないか、と。

だって、まともな仕事、人々の役に立つまともな仕事を、まだ、私たちは十分に見いだせていないわけでしょう?

まともな仕事が圧倒的少数で、まともでないクソのような仕事が大半だとしたら、クソのような仕事をボイコットして、結果貧乏しても、それは立派なことじゃないか。

もちろん、いつまでも、仕事が見つからないままでいるより、まともな仕事を創出したり見出したりして、金回りが良くなった方がいいけれど。

まともな仕事を社会に満たせるようになった時、人々が様々な面で豊かになる。

空き家が有り余っている日本で家を建てる仕事ってまともなのかしら?

子供達の睡眠時間を奪ったり、「自分は勉強ができない」って劣等感を植え付けかねない塾産業がまともな仕事なのかしら?

クソのような本を出版する出版社がまともな会社なのかしら?

クソミュージシャンがまともな仕事なのかしら?

クソホテルがまともな仕事なのかしら?

クソ政治家がまともな仕事なのかしら?

クソ、えーっと、まあ、このくらいでいいや。