さびしさ宣言

ふっとわかった、私がこのブログを初めて、いまだに思いつくたびにちょくちょく書いている理由。

 

私は寂しいのである。

 

私は私のことを理解できる人間の乏しさに淋しさを感じている。

 

私には何人かの友達がいる。

私の考えていることのだいたい二割くらいを理解しくれる友達が二人。

私の考えていることのだいたい零点五パーセントくらいを理解してくれる友達が二人。

彼らの存在はとてもありが痛いのであるけれど、ありがたいがゆえに、

もっと、理解されたり、共感されたいしたいのである。

もちろん、私だって彼らの考えていることの半分だって理解していない。

 

というわけで、私は、この場で、わりあい率直におもいついたことを書き綴っている次第である。そりゃ、私の考えを十全に理解できる奴なんていないだろう。けど、まあ、私の文章を読んで私の考えていることの一割くらい伝われば、私の淋しさは減じるわけだ。

 

その淋しさの減少は双方向であればなあ、とも思っている。

 

考えてみれば、人間の行動原理の一番深いところって、ただ「寂しいから」だったりするのである。そのような感じがするよ。

 

私は理解されない、と願うゆえに、わかりやすい文章は書かないけれど、一割とか五分とかまあ、どの程度でもよいのだが、理解されると嬉しい。まあ、大半の人間がそうであろうけれど。(ただ、実は百パーセント理解されたり、百パーセント理解していますよという態度を取られるとカチンとくる。腹立たしい。まあ、怒りのあまり淋しさを忘れるのも事実であるが)。

 

本文中寂しいと淋しいとが使われいるが、特に使い分けたわけではなく、統一するのが面倒だっただけである。