くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

みっともない、から自由になるために

みっともない、って価値判断から自由になる方法をうすらぼんやりと考えています。まだ、明確に答えは出ていません。

 

みっともないって価値尺度が私たちの生活をいい意味にも悪い意味にも縛っている気がしてなりません。

例えば、庭に雑草伸び放題だとみっともない、なんて発想がある。でも、ちょっとまって、別に雑草伸び放題でもいいじゃないか、と私には思えてしまう。雑草伸び放題の方が生き生きとしているし、土中のバクテリアの繁殖もより活発になるはずです。土も豊かになるし生き物に溢れる。雑草伸び放題でいいじゃないか。でも、雑草伸び放題だとみっともないから、雑草をむしる。馬鹿みたいだ。

似たような、ケースは多岐にわたる。ぶっちゃけ夏場一番快適な格好とは全裸ないし半裸である。だって暑いもの。でも全裸でぶらつくとみっともない感じがする。仕方ないからまともっぽい衣装に身を包む。そんな私がいる。そんな他人がいる。あほらしいなー。

髪の毛などもそうで、手前勝手にざくざく切った方が気楽である。自分で切った方が切りたい時にすぐ切れるし金だってかからない。でも、なんとなく自分で自分の感性に従って、現代芸術っぽい髪型にしてしまうとみっともない感じがする。だから、仕方なく、床屋へでかける。ばか。

私は屋外鬼寝るのが大好きだ。虫刺されのシーズンは避けるが、春先などよくそこらの雑木林で昼寝をする。が、昼寝をしながらも、なんとなーく、もしかしてこれ、みっともないことなんじゃねーかなーなどと内心ヒヤヒヤしている。ああ、ばか。

 

えー、何が言いたいのかといえば、みっともない、って感性がなくなっちまえば、私は、というか、私たちは、もっと気楽に生きてけるはずなのである。気楽ってどーいうことか。いろんなことが不要になるってことだ。即物的にいえば、金が、あまりかからなくなるだろう。なにせ、夏場は全裸で過ごすのだ。衣服代が浮くだろう。庭の雑草を無知らなくて良くなるのだ。手間や時間だって浮くだろう。

なぜ、みっともないなんて感性がこの日本に蔓延してるかってーと、おばはんとおっさんのせいだ。私自身子供の頃から、「そんなことしてみっともないと思わないの」なんて、クソのような顔をしたおばはんによく言われたものだ。その度に私は「うるせーうんこばばあ」と返答していたが、そのように返答すると、おばはんどもは、、まあ、いいや。

ともかく、おばはんどもは完璧に無視すべきである。おっさんもどうようだ。同じ人間だと思うから苦しくなる。おばはんとおっさんはなにか私たちとは違う、私たちをいじめることだけを生きがいに感じる宇宙人だと思ったらいい。実際そうかもしれないし。宇宙人とはいえ、生き物だから、生き物としての尊重だけしてやって、あとはすべて、無視してしまえばいい。

 

付記

みっともなくてもいいんだよ、って子供たちに伝えることが、つーか、みっともないって価値尺度なんてほんとうに塵芥、うんこなんだよ、って子供たちに伝えることが、ほんまに役立つ、教育ってことなんじゃねーのかなー、と私は思う。

人が人に何かを与えるっつーことは、その与えるっつー行為ん中には、必ず、救いって要素が入ってくるのだ。逆にいえば、救いっつーのはイコールコミュニケーションでもある。で、教育もコミュニケーション。コミュニケーションってなんかいい日本語訳ないんかね。まあ、いいや。で、つまり、新興宗教とかそういうんとは違う、救いっつーもんを教育も内在していかなくちゃ、なりませんよ。という話。それがたとえ職業訓練学校だろーが、幼稚園だろーが、なんだってどこだって、救い要素を皆無にした教育なんか、ただのエゴの押し付けだよ。もちろん、救いなんか必要ないっていう、澄んだ人間たちに、救いを与えようとするのも、ただのエゴです。