くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

日記 3

これは日記。ここしばらく、日記ばかり書いていたいなあ、と薄ぼんやり考えているのだ。特別な主張とか、うすめちゃって、ただ思いつくままに書くってことをやりたいのだろう。まあ、とはいえ、少なからぬ、主張というか、私のエゴってものはありありと出て行くのであろうが。

そういえば、昨日は、スッタニパータを破いた。中村元さんの翻訳版である。なんとなく、このごろ、仏教ないよなーって気持ちがあって、私が生まれた時に持っていた考え方、と、仏教経典の説く生き方論ってやつが、喧嘩を始めているのだ。で、私は私なので、私がもともともっていた考え方を大切にしたい。私は、この頃祖母が嫌いなのである。祖母は先日死んだ。死んだから嫌いになったのかもしれない。ようわからんけど。祖母は、なにかにつけて般若心経を読経する人でもあった。それが嫌いなのだ。般若心経で救われるかあ?と私は思ってしまうのだが、祖母は、まるで魔法の呪文のように般若心経(脱兎と思う、早口でよく聞き取れなかったけど。だって、お年寄りが、早口で唱えるお経って、般若心経くらいでしょう。金剛経とか?)を唱えるのであった。それが、なんつーか、しみったれていて嫌い。神社とか、お寺とかに参拝するのはわりかし好きなのだが、読経だとか写経だとかしている人や私自身行うことに拒否感を感じるのだ。なんだか、エゴの塊って感じで。阿弥陀念仏にしたところで、「それは、お前が浄土へ昇天したいから唱えてんだろう?くそったれが」なんて内心思ってしまうのかもしれない。実はそこまで明確に言語化できる思いってわけじゃなくて、沸々と怒ってしまうって感じだった。

そういえば、先ほど、ふっと、『臨済録』の仏や親を殺してしまえって節を読みたくなって紐解いて見たのだが、その内容に驚いた。せっかくなので引用しておこう。朝比奈宗源さんの翻訳。

 

お前たちよ、正しい見解を得ようと思うならば、何はともあれものについてまわってはいけない。内に向かっても外に向かっても、逢ったものをば皆殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類縁者に逢ったら親類縁者を殺して、始めて解脱することができよう。そういければ、なにものにも束縛されず、全く自由自在である。

 

だ、そうだ。確かに、そこまでしたら、悟るだろうなあ、とは思う(解脱ってイコール悟ってことだよね?)。まあ、ここで語られていることは、おそらく、他者を絶対視するな、他者に依存するな、他者を信じるな、他者からしかけられた洗脳を解け、ってことなのだろうとも思う。実際に殺せってことではないのだろう、とは思う。のだが、文字通りの意味とっても意味は通じるのだろうし、悟りにも至るんだろうなあ、と、私はぼんやりとわかってしまった。でも、なあ、そんなことしてまで、悟りたかねえよ、って。そんな、出会い頭に殺しまくってそれで悟ったとしても、刑務所ん中でニルヴァーナ最高裁判所の法廷で愉悦に浸るなんて、私は、嫌だし、なんかおかしくないかしらん、と思うのである。おそらく、そこらの寺とか、それこそ、比叡山とか東寺なんかより、刑務所んなかにこそ悟った人はいるのだろうけれど、なんか嫌だ。まあ、かなり危険な話ではあるので、明言しておくが、私は、ぶっちゃけ臨済の語り口は格好いいし、「洗脳を解け」って意味合いでは好きなのだけれど、文字通り解釈してしまうと、悲しい気持ちになったり、吐き気を催したりしてしまう。悟りってそんなええものじゃないんじゃないかなあ、と思ってしまう。まあ、このように考えるのも、先日橋本治さんの「貧乏は正しい! 僕らのハルマゲドン」って本を読んだからでもある。その本にいわく、うろ覚えだが、悟りなんて所詮、生まれ変わりがないってわかるだけのことなのだ。悟りってしょうもないのかもしれない。臨済録は好きだけれど、なんか、変。ともあれ、私は、そんな何か変、なものが好きなのだろう。問題を解くことより、問題そのものを愛でることが好きなのだ。いっそ、解決策など解法など解答などないほうがいい。で、ただ問題というか、不可解さだけがたゆたっているのが好きだ。わくわくする。楽しい。そこらへんの感覚がわかる人が好きだ。で、私自身はそこらへんの感覚がよくわかっている。

私は、学校ちゅうものがなかば恐怖感を伴うほどに嫌いなのであるが(一応言っておくが、私は勉強はなかなか得意であった。中学くらいまでは、普段一切学校にもいかず勉強もせんのだが、二、三日教科書めくるだけで、だいたい学年トップだった。まあ、くだらない自慢だなー、てかちょっと誇張した。学年トップになることもあった、である。てか、何書いてんだ、恥ずかしい。馬鹿だな、私。まあ、途中からバカらしくて、ボイコットしていたけれど。)学校というところでは、この答えとかどーでもいいよー精神が否定される。もう、いやである。学校とか関係なく、学校を抜けた先も、事実学校っぽいのである。社会全体が学校菌に汚染されている感じなのである。おしっこかけて消毒したろうか。

私には、なんだかんだいって、コンプレックスっつーものがあるようだ。ささっと脱ぎ去る予定ではあるが、コンプレックスっつーもんはかさぶたと似ている。「見て見てーこんなんできたすごいやろ」と思わず人に見せたいものなのである。てか、人に見せなくちゃ気が済まんものなのである。普通そうやろう?まあ、大人としてのマナーだとか、社会人としてのーとかそういう常識に汚染されとったらわかんなくなる感覚かもしれんけど。コンプレックスというのも、怪我の一種なのであろう。怪我なら、人に見せびらかしたくなる。

私は学歴コンプレックスである。うんこうんこうんこうんこ。何故に学歴コンプレックスになるかっつーと、(実はファザコンとかマザコンとかろりこんとかでもそうなんやけど)、無意識では、学歴なんか一切興味がないから、である。無意識っつーか本音というか本心というか。本心で興味がないもんを周りから押し付けられたら、そりゃ、傷つくやろう。そういうもん。繰り返しになるけど、おそらく、ふぁざこんとかまざこんとかろりこんとかもそういうもんであろう。母って気がついたらそこにいて、もう、存在そのものが押し付けである。幼女だってしょたこんだってそうでしょう。てか、この世の中に存在するあらゆる執着がそういうものであろう。金が好きな人も、ただ、金が目の前にたくさん転がっているから、好きになるのであって、金ってもんがそいつの目の前に一切転がってなかったら、金を好きになる要素がないであろう。要因ではなく、要素、である。ここ大事。たぶんな。断言はできない。