くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

日記16

 

年齢を重ねるごと、大人になるにつれて、時間が早く進むとよく言うが、今朝、目が覚めてから一週間くらい経ったような気がする。おそらく、まだ、十時間くらいしか経っていないはずなのだが、そろそろ冬が到来しそうな予感がする。時間の感覚など、所詮感覚なのだから、結構変幻自在である。なので、そーゆーこともあるし、こーゆーこともある。私は、どうにも、そろそろ米寿を迎えそうな気持ちである(実際には違うよ)。

いくつか理由が考えられる。1)この頃、昼寝をするようになった。だいたい一日二度、三度と、十分から二十分くらいの昼寝をするようになった。ようは、主観的な夜、が一日に三度四度訪れるわけである。そんなこんなで一日が三日とか四日とかに感じられるんじゃないかなー、と推論。2)複数の本を同時並行して読むようになった。明治の頃に書かれた本やら、昭和の終わりに書かれた本やら、ゲーテやら、つまり、様々な時代に書かれた本をつまみ読みしていくと、おそらくだが、時代感覚が、今この時代って感覚から浮遊していくんだろう。徳富蘇峰の書いた「近世日本国民史」とか読んでいると、そのような感覚がさらに加速する。明治大正昭和を生きた文豪が、織田豊臣江戸明治の歴史を編纂しているわけである。もう、わけがわからなくなる。今って時代から爪先立ちでアブダクションされている。

ところで、昼寝には様々なコツがある。が、極論、脱力することなのであろう。で、この頃、昼寝中、脱力しまくっていると、かえって、体が、ぴょーんっと飛び跳ねることがある。死者蘇生のための電気ショックでも当てられた感じである。いや、電気的な刺激、痛みなどなく、操り人形の手足が糸一つで、ぽーんと飛び跳ねる感覚か。それは両手両足だったり、片手だったり、胴体だったりいろいろなのであるが、ぽーん、と上空めがけて、跳ね上がるのである。まだまだ、完全に脱力しているわけではないので、正確には、跳ね上がりかける、といったところか。跳ね上がる力と、無意識的に体を押さえつけようとする力が対抗し合っている状況である。なかなか面白い感覚である。睡眠中や寝覚めなどに金縛りに合う人がいるし、私自身経験があるのだが、金縛りの逆ベクトルって感じである。なんか、ベクトルって言葉使うと理知的でいい感じである。高校の頃からベクトルって言葉は、語感も概念も好きである。計算も簡単だったし。

時間を引き延ばして感じるコツについて。私自身しっかりと検証したわけではないのだが、日中に、歴史を学ぶと良いと思う。例えば、朝の九時から十二時にかけて、大正元年から大正十五年の歴史を学ぶのである。すると、あなたの朝九時から十二時は、大正元年から大正十五年までの十五年間なのである。レトリックでもなんでもない、文字通りゴリ押しの主張である。いつだったか、養老孟司さんが、随筆で以下のようなことを述べていた。「歴史なんて学問あるんでしょうか?だって、人類の歴史を本当に記述しようとしたら、人類が誕生してから今までの数万年分の情報を記録再生しないといけないわけでしょう?そんなこと、人間という存在には原理的に無理ですよ。」みたいな主張。確かに、って頷いた覚えがある。が、ここで養老さんが述べている論理を逆向きに働かせるのだ。逆ベクトル(本日二回め。気に入ったのだ)に働かせるのだ。つまり、人類が誕生してから今までの歴史を学ぶことは、人類が誕生してから今まで、という数万年間を生きたのに等しいんじゃないの?って。まあ、そんなわけないけど。ニアリイコールですね。ニアリイコールってカタカナで書くと、なんか、違和感が強い。

 

際ほど、芥川龍之介の「文芸的な、あまりに文芸的な」を読んでいて、面白い文章を見つけた。

 

「元来ゲエテは僕らの嫉妬を扇動する力を具えている。同時代の天才に嫉妬を示さない詩人たちさえゲエテに鬱憤を洩らしているのは少なくない。しかし僕は不幸にも嫉妬を示す勇気もないものである。ゲエテは伝記の教える所によれば、原稿料や印税の外にも年金や仕送りを貰っていた。彼の天才は暫く問わず、そのまた天才を助長した境遇や教育も暫く問わず、最後に彼のエネルギイを生んだ肉体的健康も暫く問わず、これだけでも羨ましいと思うものは恐らく僕一人に限らないであろう。」

 

ちなみに、芥川の「文芸的な、あまりに文芸的な」には、率直な文芸論集であるとともに、芥川を含め当時の文人たちが、お金のために文章を書いていた側面があったのかもなあ、と思わせる箇所がある。

 

以下、福岡正信さんの「わら一本の革命」より引用。

 

「だいたい私は、労働という言葉がきらいなんです。別に、人間は働かなきゃいけないという動物じゃないんだ。働かなきゃいけないということは、動物の中でも人間だけですが、それはもっともばからしいことであると思います。どんな動物も働かなくして食っているのに、人間は働いて食わなきゃいけないように思いこんで働いて、しかも、その働きが大きければ大きいほど、それがすばらしいことだと思っている。ところが、実際は、そうではなくてですね、額に汗をして勤労するなんてことは、一番愚劣なことであって、そんなものはやめてしまって、悠々自適の、余裕のある生活を送ればいい。まあ、熱帯にいるナマケモノのように、ちょっと朝晩出ていって食物があったら、あとは昼寝して暮らしている、こういう動物の方がよっぽどすばらしい精神生活してるんじゃないかと思うんですね。」

 

最後に私は、「きょうされん」という障がい者のための団体が大っ嫌いである。というのも、彼らは「障害者が共同して働ける場所をもっと増やして、もっともっと増やして」と活動してきて、これからも活動していくからである。バカじゃないのかな。と思う。障がい者(主に知的障がい者)が、騙されやすい人たちだからって、そんな自然にかなわない洗脳を(労働=すばらしい。労働せざるもの人にあらざる的な。人権として労働の権利をという名目のもと、労働の義務化を推し進める。)していいのかなあ、と思う。卑怯じゃないか。ぶっちゃけ、障がい者の権利や、障がい者がよりよく生きていける社会の実現を訴えたいなら、「わざわざ障がい者が働かなくても、障がい者が豊かな生活を生きれるだけの年金なり、社会福祉なりの充実こそ」を国に訴えたほうがいい。そっちが筋が通っているよ。障がい状況にもいろいろあるけれど、でも、なあ、主に自主的に動かせるのが指先や声帯や表情のみ、という人たちが汗水垂らして働く必要がどこにあるんだろうか。娯楽としての職業体験ならアリ、かもしれないが、肉体的に大きなハンディキャップを負った人たちが、延々と内職を続け、それが当たり前よ、という空気を作ってきたこの社会は、どこかおかしい。で、「きょうされん」という組織は、良かれと思って、そのようなヘンテコな空気を醸成してきたのだろう、と思う。この道しかない、と思って突き進んできたら、ただの袋小路だった、という話。

これはあくまで、私の考え、なのだけれど、重度の障害を抱えた方は、狭い作業所に閉じこもって、一日何時間と内職を半強制されるよりも、彼らの体力が許す範囲で、朝は近所の公園に散歩、昼は昼寝、夕方はみんなでお出かけ、で、年金生活、そんな日々が送れてもいいんじゃねえかなー、と私は思います。財源とかは知らんけど、まあ、無駄を減らせば(くだらないサービス業を全廃すればいいのです)、なんとかなるだろう。

ぶっちゃけ、私は、障がい者福祉に関しては、「ただ、違和感を感じているだけの人」である。別に、「障がい者福祉を改革する人」ではない。面倒臭いから。また、「きょうされん」って名前を出したけれど、私は別に、「きょうされんを壊したり無くしたりしたい人」ではないです。ただ、「共同作業所づくりに対して一切共感を持てず、きょうされんの活動にちらっと関わった際、変だなー、こんな変なところからさっさと足を洗ってしまおう」と逃げ出した人である。障がい者にとってのインフラってなんだろう?それは、働く場、なのだろうか?違うと思う。

 

てか、日記っておもろいなあ。こういうこと、胸に秘めたまま、誰にも言わないでおこうと思っていたのに。