こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

日記20

先ほど、志賀直哉の小説を読んでいたら(子供四題とかいった)莞爾という漢字ににこにことルビを振ってあった。石原にこにこかあ、と思考が脇道へとそれ、思わずにこにこしてしまった。

この頃面白い面白い、と読んでいる本。

徳田雄洋『離散数学「ものをわける理論」』博士と助手の対話形式で、自然と理解が進む。説明も反復的で螺旋形で論理が進んでいくので、少しずつ読んでいくと体感的に理解していく。

井上章一他編『性的なことば』もろもろの性的な言葉の発端をおった文章集。露骨に脇道に逸れていくところが面白い。

橋本治『貧乏は正しい!』シリーズ。今、シリーズ3巻目の「ぼくらの東京物語」を読んでいる。二巻の仏教論は面白かった。悟りってなんだその程度のことだったのか、と悟りに対するコンプレックスが解消された。薄々感づいていたのだけれど。悟りってそういうものなのだろうとは。

その他、徳富蘇峰「近世日本国民史 豊臣秀吉(一)」や福岡正信『自然農法 わら一本の革命』『バラード短編全集』『志賀直哉全集』などを読んでいる。我ながら、いいラインナップである。読書というのは、手当たり次第に本を手に取り、面白かったら読み進め、つまらなかったら次の本を当たるというやり方が、誰にでも実行可能であり、効果的かなあ、と思う。何に対して効果的なんだ?と書きながら思うが。他にいい言葉が思い浮かばなかった。

つまらない、と思った本を読まなくなると手元には面白い本しか残らないから不思議だ。不思議というか当然っちゃ当然だが。人間関係も同じなのかなあ、とさらりと考えてしまう。けど、面白い面白くないってどういうことなんだろう、人間関係において。まあ、本の場合とおんなじことか。

ふっと思ったのだが貝原益軒の『女大学』とか今読んだら、結構笑えそうである。本というのは、権威性とは無縁の物質だったんだなあ、とこの頃感じる。読書の楽しみを深めてきたから感じることだろう。この本を読めばいいことがあるよ、っていう思い(込み)が、本の権威化なのだろうと思う。考えて見ると、権威化の構造はどれも一緒だ。学校の権威化だって、この学校を出たらいいことあるよ、ってことだろう。いいことあるよ、ってどういうことなんだろう?この頃よくわからない。私の話を聞くといいことあるよ、と自己紹介してくる人は結構いる。実際、いいことある気もするし、まあ、なかった気もする。私はふっと思うのだが、仏教で言うところの、方便って思想も、そろそろ私たち現代人は捨て去ってもいいのではないだろうか。要は、「いいことあるよ」って謳い文句で権威化して、人々を誘い入れるというのは、一種の方便であろう。けど、私自身そうした方便に振り回されている感じがある。そうした方便には、もう食あたり気味だな、って気持ちがある。その日私たちは、

雑誌ってどーゆーことなんだろうか。雑誌ってようは、胡麻和えみたいなもんなんじゃないだろうか。

あるいは、なにかもっと、もつ鍋とか。

私たちは、もっと、こう、週刊現代とか、そーゆー、大手出版社が金儲けのために作るのとは別の、雑誌を編纂して共有して面白がってもよいのではないだろうか。雑誌っていわば、村と似ているし、生活と似ているし、まあ、その、

運動会へタバコをくわえて出かけよう。タバコをくわえて徒競走。タバコをくわえて綱引き。

話は変わるが、「世界にひとつだけの花」の歌詞にじっと注目してもらいたい。歌詞は引用しない。ジャスラックがうるさいからだ。で、冒頭の歌詞をじっとみつめてほしい。私は思うのだ「花屋に並べられている段階で、なにかしらのフィルターかかっているよね?」「何かしらかの判断基準の元選ばれた花のみが花屋に並んでいるよね?」この歌って、本当のところ、みんなオンリーワンの価値があるんだって歌なのかなー?槇原さんはきっといいひとだから、何かしらかの願いを込めて作詞したんだろうな、とは思う。けど、その作詞はちょっと失敗しているんじゃないかなあ、と思われる。花屋に並んでいる段階で、「きれいな花」ってレッテルが貼られているし、逆に、途中でしおれて商品にならなかった花は捨てられちゃうのが花屋なのだ。別に、それが悪いって言っているんじゃなくて、花屋ってアナロジーを人間社会に敷衍するとちと問題があるかもしれないな、という話。および、世界にひとつだけの花がこれほどまでに好まれ歌い継がれてきたのは、実は私たちの中にある差別意識ゆえなんじゃないかなー、という疑問。私たちは、花屋の花のみがすきだから、あの歌を歌って、子供達にも歌わせるのだ。

障がい者施設なんかでも、よく、この歌が歌われる。みんな大好きだ。でも、待てよ、って私は、なんだか一人寂しい気持ちになる。少なくとも、私自身は、花屋に並べられる花ではない。そういうなんというか、商品じゃない。やや差別的な発言と取られるかもしれないが、障がいを抱えられる方の多くも、別に、花屋で並べられる花ではないんじゃねーかなー、と思う。うまく伝わる自身はないのだが、障がい者施設で、障がい者の人たちと一緒に歌う「世界にひとつだけの花」って、結構不気味だ。阿呆らしい。馬鹿馬鹿しい。

揚げ足取りです。