くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

日記23

僕が言いたいのは、この世界はおかしいということ。それ以上でも以下でもない。ただ、「この世界はおかしい」って表明にはいろんな含意が含まれている。たとえば、「この世界はおかしい、だとすれば、そのおかしさをうまいこと是正すればこの世界は今よりもっともっと良くなるに違いない」とか「この世界にはおかしいことがたくさんある。ということは人々や社会がそんなおかしな振る舞いをやめられれば、この世界は自然とよりよい世界に回復して行くだろう」といったこと。

もっといえば、「僕は僕一人がこの世界はおかしいと表明し続けることに寂しさを感じている」という含意もある。寂しくなかったら、言葉なんて生まれない。「この世界はおかしい」どうしてみんなこの世界のおかしさをスルーしているのか不思議である。不思議というか寂しい。

政治家はみんなお金をいかに引き出すかってことしか考えていない。それはおかしい。この社会をよりよくするにはどうすればいい?という問題意識をほとんどの政治家は持ち合わせていない。共産党でさえそうだ。共産党でさえ、金を弱者に回せと主張しているに過ぎない印象を受ける。そうじゃないだろう、と思う。金の話は金の話で重要なのかもしれないが、いや重要じゃない。いかにこの社会をよりよくするかという発想が全てだ。要は、アイデアが全てだ。この社会をよりよくするアイデアを量産してそれを社会に落とし込むのが政治家の仕事だ。金を引き出すことじゃない。おそらく、金というのは換金という働きによって多くの大切なものをふるい落す装置である。変換とか換金とかってのは、火力発電所など電力発電を考えればなんとなくわかるが、おおくの瑣末な事柄を切り離してしまう。金じゃないものを金に変える間際、金に変わらない要素が確かに存在するはずなのに、その金に変わらない要素はあってないものとして無視される。

さて、話が変わる。先ほど、思いついたことなのだが、マンションやアパートで空き部屋を多目的室として住民たちに開放すればいいのになあ、と思った。どうせ次の住居人が来るまでは空き部屋なのだ。それ相応のルールの元多目的室として団欒スペースとして住民たちに開放すればいいのに。すると住民たちはもっと楽しくなる。住民たちの楽しみを尊重しないで、なんのためにアパートやマンションといった不動産を所持しているのだろう。

どうにも、僕はこの頃私という自称で文章を書きすぎたようだ。どうにも、私であることに不甲斐なさというか、窮屈さを感じ始めている。人称ってなんなのだろう。よくわからないが、認証というのは使えば使うほど無意識のうちに変形して行く。その変形が心地よい場合もあれば、行き詰まりを感じさせることもある。

ああ、僕はこの世界が大嫌いである。この世界はとてつもなくおかしい。世界のおかしさに気がつくことは希望なのだと思う。