日記24

何かを書こうと思ってワードソフトを開いたのだが、実は、何も浮かばない。事前にこういう話を書こうかなあ、とメモ書きはあるのだが、そのメモ書きをただ箇条書きするのもつまらないよなあ、と。たぶん、あまりに天気が良いからだと思う。連日の雨が止み、暑すぎずでもポカポカする陽気で、心身ともにぼんやりしているのだろう。

先ほど、昼寝をしていた際もよく眠れた。二十分ほどの昼寝なのだが、夢まで見た。金縛り付き。顔のない男がすぐそばまで来ているのだが、一向に体が動かないというもの。まあ、じきに解けたが。

昨晩実存主義について考える。考えるというか、ふっと思い出し、思い出したついでに、自分勝手に実存主義に定義を与える。以下のような定義。昨日作成したメモである。

実存主義

人間一人ひとりがそれぞれ全く異なる知の体系を持っているという考え方。

体系化されているので用語や概念が異なっていても相互理解可能。」

体系知ってなんだろう?と考えるとそれは解読可能な知の塊って定義するのがわかりやすいかなあ、と思う。まあ、某の場合は。逆に言えば、解読可能であれば、体系知なのだろう。体系というのは、なんというか、整然と並んでいるとか層構造になっているとかではなく、その体系に全く無知な人でも、時間をかければ部分的に理解可能なことなのだろうと思う。で、じゃなきゃれば、人間相互に理解し会えないよね、と某は思う。

話は変わる。朝方の散歩時、大学の目的について考える。例によって、橋本治さんの「貧乏は正しい!」を元ネタにして、某の言葉に言い直したというわけだ。以下、今朝方考えたこと。今朝方とったメモの書写しである。

「大学は人から教わるという行為を終わらせる場所。」

リベラルアーツは人を自由にする学問だという。その学問が人を自由にするって感覚がイマイチよくわかっていなかったのだが、「大学とは人から教わるという行為を終わらせる場所」と捉えると、なんとなく腑に落ちる。ようは、リベラルアーツを学ぶことによって、もうこれ以上他者から教え諭されなくても、自分の頭で考えられるようになる=他者からの直接的な影響から自由になれる、というわけなのだろう。なるほどなー。というわけで、自分の頭で考えられるようになればそれでいいってわけだ。つまり、リベラルアーツとは、その内容は問われない。何を学んでも結果、自立できれば、それはリベラルアーツなのであろう。

現実問題、永遠に教育を続けて行くことはできない。人間の寿命は限界があるから。先生っていうのは、文字通りには先に生まれた人って意味だから、誰が90歳の老人の先生になるのか。どこかで、先生離れせねばならないのだろう。で、その先生離れを無理やり行うのが大学って場所なのだろう。無理やりな感じはする。人間どこまで行っても無知蒙昧だから、いくらリベラルアーツなんてものを身につけたところで、愚かな人間のままなのだ。いつだって先生らしき存在を求めてしまうものだろう。で、結果現れるのは、ヒットラーも含めたカリスマ。ようは、年長者ではなく、自分より年下ないし同年齢の人間を崇め奉ろうとする心理。カリスマ崇拝は長くは持たない。なので、やっぱりどこかで、先生およびカリスマから乳離れする必要があるのだろう、某たちは。

私って自称に違和感を感じ、僕って自称に戻し、でも、ただ戻るだけじゃつまらないから、新たに某(それがし)って自称を用いているのだが、まさしくとってつけたような用い方である。うっかりすると、某って自称を入れ忘れてしまう。

昨日より、坪内逍遥当世書生気質』を読み始める。が、これはかなり面白い。以前流し読みしたことがあるのだが、今となってわかるこの痛快さ。某は、読書時大抵音読朗読するのだが、言葉切れがよく心地よいのだ。しかも、内容が極めてばかばかしい。落語のようなオチ、はないのだが、ただただみんなバカをやっている。よく、明治の若者は今の若者と違って人生を真剣に生きていた、などというが、そういう連中は今の若者をしっかり見据えるか、さもなくば「当世書生気質」を読むといい。今の若者も、某を始め、いいやつは本当にいいやつなのである。で、昔の若者も、バカバカしいけどいい人たちなのだ。老人たちが今の若者をこき下ろすのは、聞いていて辛いものがある。殴りそうになる。

先日も岡本神草という昔の美人画の展覧会行ったところ、しわくちゃの声のでかいクソババアが岡本神草たちの写真を前にして「このころの若者は今と違って気骨ある顔しとるねえ、これで20代かい」みたいな、クソ印象論をぶちまけていたが、殴りそうになった。昔は今と違って写真を撮るなんて稀なのである。そんな稀な写真撮影時、格好つけるのは当たり前じゃないか。というか、ババア、美術館内でうるせーわ。ババアはその後、何かを喉に詰まらせたようでむせかえって水を求めて立ち去った。

腹が立つことはいちいち吐き出した方がいい気がするからこうして文章化しているのだが、某って器小さいのだなあ、と思わないでもない。ババアがむせかえった際、某はババアのことを一切心配せず、うるせえなあ、としか思わなかった。冷血なのだろう。

幼年期より、ジジイやババアから、意味もなく偏見をぶつけられて来た経験があり、某は昔嫌なことをされたジジイやババアと似た雰囲気を醸し出す老人が嫌いである。正直、そこまで毛嫌いしなくてもいいのになあ、と思う。もっと肩の荷物を降ろしたい。でも、ジジイやババアというのは、本当に自分の利益しか考えないから腹が立ってくる。こころやさしいおばあちゃんやおじいちゃんもいる。でも、ジジイやババアに攻撃された記憶をまだ清算できない。

まあ、人間一人ひとり違う存在。ジジイババアとカテゴライズしているから苦しくなるのだろう。道ゆく老人すべてが某を攻撃してくる気がして、気が滅入る。

某という人称は、なんだかんだいって、今の某の心象にがっちしているようだ。心地が良い。