こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

日記26

色々考えていることがあって、その色々な考えが、あたまのなかでもやもやっと雲を作っている。箇条書きになるが、思考の整理を兼ねて、思いつく順番に述べていこう。

今朝方よりオーム真理教について考えている。あいまいに、オームってなんだったんだろう?って思考と、もう少し応用的で具体的な思考。以前、このブログでも書いたことなのだけれど、現代日本には、たくさんのアイヒマンとたくさんのホロコーストが存在している。第二次大戦かのドイツほど大規模で残酷ではないかも知れないけれど、本質的には、アイヒマンと変わらない人たちが、構造的にはホロコーストと変わらない職場で凡庸に働いている。で、それと似た思考パターンなんだけれど、オーム真理教が信者たちに施した洗脳手法って今の社会に全般的に用いられている(気が某にはする。気のせいだといいな。)。たとえば、オームではLSDを服用させた上で「修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ」という麻原の声を録音したテープを延々と効かせたそうである。LSDの服用こそないけれど、ただひたすら同じ音声を流し聞かせ、人を洗脳しようとする人々はいたるところにいる。例えば(あくまで一例。コンビニ業界に敵意があるわけじゃない。)コンビニでの店内放送。バイトの人達は、あれを一日何時間と聞くのだ。年間何百時間と聞くのだ。ひたすらおでんや唐揚げの宣伝を聞くのだ。コンビニの店内放送を聴き続けても、テロリストにはならないだろう。けど、知らず識らずのうちに、自分の嗜好が店内放送によって上書きされていく可能性はないのか?それって、立派な人権侵害じゃないのか。どうなんだろう?本当に、どうなんだろう?

会社について考える。結論を言えば、会社も学校も変わんねーなー、という発想。会社も学校も、まだ、独り立ちできない人たちが頼る場所だ。一人じゃ自給自足できないから、会社へ就職する。一人でものを考えられないから、学校へ行く。おんなじだ。となると、学校をいずれ卒業するように、会社だって卒業していいはずだ。その卒業はなにも定年退職とイコールじゃない。

社是について考える。社是と一人一人の社員の価値観を完全に一致できるわけがない。そもそも、一致させちゃあかんだろう。無理なことを無理やりすると人は知らないうちに壊れる。人は壊しちゃダメだろう。しかし、会社としては、社員であるうちは、ある程度社是を尊重してもらわないと困る。ここで、先ほどの会社=卒業という発想が生きる。社是とは会社在籍中という人生のほんのひと時多少尊重してやる程度のものなのだ。社是を守るのは一時的なのだ。

仕事について。仕事の責任ついて。よく仕事として金をもらっている以上、仕事に対して責任を持てという。常識的発想だ。でも、その責任ってなんなのよ?という疑問。具体的に考えると、某の疑問が少しは伝わると思う。例えば、牛丼などファストフード店の店員と客の場合。ある客が、その店のファストフードばかり食べまくった結果、体重300キロの超肥満になり体調を崩した。客の体調悪化の責任は誰が取るのだ?まあ、客なんだけれど。仕事で要求される仕事って、会社側が自己本位で決めた会社の利益に則った責任なのだ。まあ、雇用ってのは、会社の利益のために行われるわけで、それで当然なんだけれど、会社に対する責任て、所詮会社に対する責任でしかないんだよな、と冷めた気持ちで思う。

政治投票について。マニュフェストについて。よく、立候補者に明確な政策がないことが問題になる。が、よくよく考えてみると、投票する某たちの側にも明確な政策がない。で、実は、そのこともまた大問題なんじゃないかなあ、と考えた。そりゃそうだろう。だって、自分たち(市民、有権者)が社会があるべき未来像を構築できていないのだ、そんな状況で、投票先を選べるわけがない。自分たち自身が独自の政策を持っているからこそ、候補者たちの中で、一番自分の政策に近いやつどれかなー、と選択可能になるわけだ。政策って外部から、政治家から与えられるものじゃない。その政治家たちだって官僚や諸外国から政策を与えられているのだ。そんなもらいもののもらいもののもらいものみたいなものから某たちの未来を選んだってろくな結果にならない。

高校の公民の授業で、政策づくりの演習をやれば面白そうだなー、と思う。散歩中、想像の学校の想像の教室で、想像の授業を展開してみた。面白かった。

なんだか、真面目だなあ、某。

せっくすせっくすせっくす。すっぽんぽんのぽん。

おまんじゅう。

なんか他にも考えていた気がするのだけれど、忘れた。社会ってのは悪くするよりよくした方が良いに決まっている。で、よりよくなる、とはどういうことか、というと、ほんの少し意図的に方向転換するってことだ。まあ、大雑把にいうと。一年のうち三百六十五日毒物を摂取していた人間が、年間三百六十四日毒物を摂取するようになれば、まあ、ちっとはマシになるのである。このちっとはマシになるってことが、よりよくなるってことなんじゃないかなあ、と思う。大したことないのだ。

オームで言い忘れたこと。オームでは特殊な称号が信者間で使われていたそうだが、この特殊な称号ってオーム以外でも利用されている。被雇用者のことを、シニアマネージャーだの、ピアだの、パートナーだの、といった仮面で呼ばわる。仮面を被せる。まあ、んなこといったら将棋の竜王とか名人とかも同類だが。でも、特殊な名称を付与するという行為に、なんとなく嫌なにおいを某は感じる。オームの話はなんとなく怖いので、もうやめる。一応言っておくと、某の意図は、オーム批判ではなく、社会全般に対する不信感の表明だったりする。オームのことは、特別詳しくない。

ちなみに、オームオームと「ー」表記なのは、某にとっておうむの第一変換候補は王蟲でありたいからだ。それだけの理由。

すっぽんぽん。