こっち

新しいブログを別サイトで始めた。棲み分けが必要だ。こんがらがった毛糸をぶちぶちとちぎって、あっちとこっちにわけよう。こっち側。

日記29

おはよう。

今朝方は大いに眠る。元来眠るのは大好きなのだが、このごろ長時間睡眠=ストレス発散法となっている。面白いことに、眠って眠って眠りまくると、大概のストレスは綺麗になくなっている。ストレスを一切感じず、思い通りに生きるのが理想なので、その理想への通過点といったところなのだろうか。某の現在地点は。

昨晩、久しぶりに、虚無を感じる。虚無というか、この自分が消えて無くなる様をまざまざと想像してくずおれそうになる。そうになっただけで、結局もとのとおり生活を続行している。何もかも虚しい、というのは結構しんどい状態である。病気でもなんでもないけど。

今朝方、種無し柿を食べながら病気について考える。種無し果実って果物側から見れば一種の病気なのかもなあ、といった思考。種をなくすことによって栄養価に変化はないのか?とも思う。まあ、そんな種無し果物への懸念を抱きながら、某は幼年期からバナナを愛食しているわけだが。心配事なんてその程度のこと。すごく、限定された視野で心配している。

観葉植物が枯れ始めている。心配。

修行と習慣についてぼんやり考え始める。修行と習慣は、人を高めることができる、と思う。もちろん、他にも様々なやり方があるとは思う。いい習慣を身につければ、人は知らず識らずのうちに、自分で自分を育てることができる。で、一方、いい修行も同様。修行と習慣は自分を育てるって点で同じだけれど、修行には終わりがあり、習慣には終わりがないって点で異なる。習慣は終わりがないからこそ、どこまでもどこまでも成長を促し続ける、一方、修行は終わりがあることで、意図的な成長が望める。某はこの頃修行への関心が高まっているようだ。で、それは良いことなのだろう。終わりってものを最近意識できるようになった。

昨日、「当たり前から出発しよう」なるブログ記事を始めた。なんというか、この頃、「あれもやりたい、これもやりたい」状態になっている。うずうずしている。で、「当たり前について考えていく」ってことも、やりたいことの一つだった。で、やり始めてみた。実を言えば、読書日記もブログ内で展開したいという思いがある。ブログとは別に、中期集中的に勉強したい領域もある。あれとあれとあれだ(学習内容を告げるのは昔からなぜか恥ずかしい)。当たり前ってなんなんだろう?という思いは強くある。その一方で、当たり前っぽいものから考えを進めて行けば、この現状を打破できる好機がつかめるという根拠のない確信がある。何事も当たり前の積み重ねなんじゃないか、と思う。で、某はまだその「当たり前」ってものがどのような性質でどのような形式をとるのかをつかめていないのである。「当たり前」と「常識」まるで違うということにも注目して行きたい。

何かを始めるのは楽しいことである。この頃生活が安定しすぎていたので(読書、散歩、文章作成、立禅の四本柱だった)、退屈していた。人間そんなに多くのことやる必要はないのだが、深みはあればあるほどいい。わかりやすさってようは、深みを持つってことでもある。