日記35 障がい者福祉

某は主に左腎臓を痛めたようだ(某から見て左側)。腎臓って痛みを感じるのか、便利だなあ、と思う。今、目が覚めて、朝の水分補給をとった。すると、左脇腹が、きゅっきゅっと痛み始めた。血液をろ過しておしっこを作っているのだろう。紡錘体とかいうんだっけ?ボーマン囊だったっけ?忘れた。生物の図録に載っていたイラストは覚えているのだけれど、名称はうろ覚え。

障がい者福祉って難しいなあ、って今更のように感じている。まあ、人間関係って難しいね、ってだけなのかもしれない。難しい人間関係を固定化してしまうと、某のような人間には辛いのかもしれない。当たり前の話なのだが、某には好き嫌いがある。これを障がい者福祉の現場に当てはめれば、好きになれる障がい者とどんどん嫌いになる障がい者とがいる、となる。障がい者福祉というのは、要は障がい者の世話をするってことだ。支援とか介助とか言い方を変えたって同じことだ。で、某はわがままなので、嫌いな野郎の世話をするのは嫌だったのあろう。無意識的に、肉体的に拒否反応が出たのだろう。

正直なところ、気持ち悪いなあ、こいつと思う障がい者もいる。そりゃそうだ。健常者にだって、気持ち悪い奴はいる。人間には気持ち悪いやつと気持ち悪くないやつとがいる。そりゃそうだろう。大学教授にだって気持ち悪い大学教授もいれば、気持ち悪くない大学教授もいる。タレントにだって、政治家にだって、小学生にだって、そういう区別は働く。

なぜから知らないけれど、気持ち悪いやつとずっと一緒にいると、某は傷つくようだ。不思議である。別に、明確に攻撃にされされているわけではない。ふっと、内心「なんなんだこいつら。食う寝るオナニーしか興味がないのか?」とか思ったりすると、次いで虚しさや苛立ちを感じてしまう。一切笑顔なく、こちらと接してくる人間には殴りたくなる。殴らないけど。

思い返してみると、「こいつと付き合うのは無理だ。しんどい」と思った相手は大抵、笑顔がない人間だった。ここでは障がい者健常者は問わない。もちろん、そいつらは笑わないわけではない。ただ、某に向かって笑いかけることはなかった。もちろん、嘲笑われるのは、別の意味で苦痛だが、こちらが笑いかけても、一切表情に反応がない人間は、死ねばいいのにと思う。今、実は、「死ねばいいのにと思う。」ではなく、「一緒にいて苦痛だ。」と書こうと思った。が、気がついたら、「死ねばいいのにと思う。」と書いていた。本音なのか、一時的な怒りゆえなのか、微妙なところ。

何はともあれ、某にとって、対人コミュニケーション上で笑顔がないことはかなり辛いことなのであろう。そもそも、笑顔がないということは、某を支配しようとしている可能性がかなり高い。抑圧的振舞っているということだからだ。あるいは、某の存在をあってないようなもの、ロボットか何かのように捉えているのだろう。

某は、正直言って、人間の好き嫌いが激しい、一度嫌うとなかなか好きになれず、また、大体の人間を初対面の段階で少し嫌いになる。そういう人間ではあるのだが、反対側から、某を嫌っている人間の側から某を眺めてみるとどうなるのだろうか?某が嫌っている人間は、大抵、某をなにかロボットのような意識のない存在として理解しているのではないだろうか?これは某の思い込みか。話を障がい者福祉に戻すが、障がい者の方が社会的に差別されかねない状態なのは事実だが、一方で、一部の障がい者の側も某のことを、何か自分の世話をするだけのロボットやルール(あれはしてはいけない、これはしてもいいを判定する)として見ていたのではないか、と感じてしまう。もちろんごく一部だけど。

話がわかるってどういうことなのだろう。一緒にいて辛いなあ、と感じる障がい者さんに対する印象は「こいつとは話が通じない」って言葉に集約される。仲良い障がい者さんとも、ちょっとした誤解で喧嘩してしまうこともあったが、でも、話がわからないという感じはしなかった。「そういう障がいなんだから、仕方ないじゃないか。お前が相手(障がい者)に合わせろよ」と言われても困る(けど、そのような「標語」は障がい者団体は常に顕揚する。そこにも辛さを感じる。障がい者団体というのは、とどのつまり、障がい者の権利を主張する圧力団体なのだ。その圧力をもろに食らうと一個人に過ぎない某は押しつぶされそうになるのだ。権利の主張は大切なことなのかもしれないが、ある一面では常に暴力的だ。)。某は、そこそこ合わせているつもりなのだ。いや、どうだろ。合わせていないかもなあ。というか、「話が通じない相手」に話を合わせるって、どういうことなんだ?それは、まるで、某が某自身を機械のように扱うってことじゃないのか。「話が通じない相手」だとしても、大抵の障がい者さんには三大欲求くらいある。食いたい、寝たい、オナニーしたい。食いたい、場合何を食いたいのかはジェスチャーを通じて相互理解が可能だったりする。けど、「話が通じない障がい者」とのコミュニケーションの全てが「そいつが何を食いたいか」だけというのは、まるで自動販売機にでもなった気分だ。こいつにとって、某はただ食い物を運ぶ機械なのか。まあ、んなこといったら、そこらへんの料理屋の店員はみんなそうなるか。でも、一切の感謝なく、ただ料理を運ぶ、用意するそれでおしまいって、なんなんだ。まあ、某の側の問題でもある。そのようなコミュニケーションで一向に構わないって人々もいる。結論なんていつだって味気なく、ただ向き不向きの問題なのだ。某には向いていないようだ。いや、部分的には向いているのである。初めから述べているように、某は人間に対して好き嫌いが激しいのである。好きになれた障がい者さんとは、これまでだってこれからだって良好に関係を築いていくのである。嫌いな相手だと、某の精神ないし肉体が故障するのである。ただそれだけだ。嫌いな相手当人がどうなるかは知らない。何も変わらないんじゃないだろうか。なにも変わらないところが嫌いなのだ。まるでかちこちに固まった粘土みたいで。。