私たちはいつ、勉強しているか?

日記64(100までいくよ)

 

当たり前の話。

 

Q、私たちはいつ、勉強しているか?

 

答えはいたってシンプルデアある。

 

A、私たちは、常に勉強している。

 

勉強って言い方が、強いる、勉めるで強制っぽくていやな人は、学習、練習、鍛錬、修練、修行、研鑽、などと呼び変えるといい、と思う。

 

で、私たちは、常に勉強をしている。→学校や自習室だけの勉強が勉強ではない。

 

なぜか。

 

例えば、私たちは、日常的に日本語を話す。

 

私たちが日本語話す際、私たちは日本語の練習をしていると言える。

 

故に、私たちは日本語話している間、日本語の勉強に励んでいる。

 

あるいは、私たちは、日常的に、二足歩行を行う。

 

私たちが二足歩行を行う間、私たちは二足歩行の練習を行なっている。

 

故に、私たちが二足歩行をするとき、私たちは二足歩行の勉強(へんな言い方ですな。まあ、いいじゃん)をしている。

 

似たような例はいくらでもあり、呼吸、心臓の拍動、などを考えると、私たちは常に、何かしらかの練習=勉強をしていることになる。

 

練習と本番を明確に分けるものはないのだ、という発想です。

 

赤ん坊は、直立や自立歩行の練習に取り組む。

しかし、その直立や自立歩行の練習は、いつまでが、練習で、いつからが練習じゃなくなるのだろうか?練習と練習以後に明確な線引きってないはずだ。

 

こうした発想は、例えば、身体障がい者と身体がい害をもたない人々との橋渡しにもなる。

 

また、武術への理解も深めてくれるだろう、と思う。少なくとも、僕は一つの足がかりと捉えている。

 

きっと、練習もある意味本番であり、本番もある意味練習なのだろう。だから、本番のために練習が可能であり、本番後、練習が深化するのだろう。

 

と、思ったよ、という話。