くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

比喩について

比喩について、書いておこう。忘れてもいいように。

1)全ての表現の背景には、なんらかの思想を読み取ることが可能だ。これは全ての表現の背景には、なんらかの思想が存在している、という意味ではない。が、似たような意味かもしれない。

思想→表現、とは必ずしも言切れないだろうが、

表現→思想、と思想の存在を浮き彫りにしていくことは可能だろう。

2)比喩表現の背景には、平等思想がある。僕は、この平等思想を「行き過ぎた平等思想」と今の所呼んでいる。一般に認知されている平等思想と区別するための命名であり、一般の認知が僕の認知に追いついたり、あるいは、よりかけ離れたりしたならば、新たな命名を行うだろう。行わないかもしれない。どっちでもいい。

行き過ぎた平等思想とは何か。それは、例えば、

あなた=私

といったものだ。私と、あなたは、異なった存在であるが、確かにそうなのであるが、「行き過ぎた平等思想」の立場から見れば、

あなたも、私も等価、なのである。ここでいう等価の意味は意味深だ。それ相応の言葉数で定義しなくちゃならない。ここでは端折る。

「行き過ぎた平等思想」とは、どう考えが得たって、異なった存在を、等価とみなす思想だ。空観にも通じるだろう。

3)「行き過ぎた平等思想」は空観にも通じる。空観って何か。それは、物事を、有るようでもあり、無いようでもある、と見做すことだと思う。見做す、っていうか、そう認知するってことか。うーん。何はともあれ、空観の立場に立てば、この世のありとあらゆる物事は、「有にして、無」なのだろう。そういう意味で、

あなた=私=有にして無。

となる。

以上の式において「あなた」と「わたし」には他の単語を代入しても良い。たとえば、「うんこ」とか「しっこ」とかでもいい。

4)比喩とは、A=Bの言い換え。あるいは、A=Bを言い換えると比喩にもなる。

たとえば、

うんこのような女、という比喩があったとする。

これはすなわち、

うんこ=かの女

である。

女のようなうんこだって、そういう式に表現できる。

まあ、ここら辺は深入りすまい。ただ、深入り可能である。

5)言語は、比喩運動(変な造語ですなあ)によって、無限に生成される。

今、ここに。

A、B、C、Dという四単語しかない言語体系が存在したとする。

「行き過ぎた平等思想」のおかげて、全ての比喩表現が可能だとする。

つまり、

A=B

A=C

A=D

B=C

B=D

C=D

比喩に置き直すと、例えば、「AのようなB」「BみたいなC」

しかし、比喩は新たな心象イメージを産み、心象イメージそのものが言語の影みたいなものだ。心象イメージが新たに生まれたなら、そこにあらたな言語が生まれる。

つまり式に表現すれば、

(A=B)=E

のような感じになる。

つまり、

「AみたいなB」という比喩表現をEという単語としてくくる。

もともと、A、B、C、Dの四単語だったこの言語体系にEという新単語が加わる。たの比喩においても、同様の作用が働き、新たに生まれた言語間でも、近親相姦的な交わりが続き、言語が無限増殖していく。

こうした無限増殖が、人間の心象世界の拡大なのか、細分化なのかはわからない。おそらく、拡大だろうと思う。何故ならば、人間の側が心象世界を拡大し続けなければ、こうした言語の無限大の拡大へはついていけないだろうから(我ながら、論理的な論理だなあ)。

ここで、ひとまずの結論として、あらゆる言語体系は、比喩運動によって言語を自然生成するため、無限大に拡大している。まあ、この結論は、仮定。証明する気のない仮定ですね。

6)「行き過ぎた平等思想」とは、この世のありとあらゆる事象を無作為に選択しうるということでもある。

「行き過ぎた平等思想」において(これはある意味危険なのだが)、何を選んでも自由という側面がある。というのも、「行き過ぎた平等思想」において、うんこも、クラスもマドンナも、

うんこ=マドンナ、

なのだから。

そもそも、全ての事象が=で結ばれるのである。

ゆえに、ありとあらゆる言葉の間に、比喩関係が結ばれうる。

そして、これは何を意味するかっていうと、「行き過ぎた平等思想」において比喩表現とは、無限大の言語体系の中から表現対象を拾い上げるってことである。

たとえば、

X=Yという等価を比喩として表現するとする。

つまり

「XのようなY」である。

この場合、「X」「Y」は、無限の言語体系の名から恣意的に選びとられたことになる。別に、WとかUとかでもいいのだ。何故ならば、全てが等価だから。

7)ゆえに、(ちょっと、論理が飛んでいるかもしれない)無限大から選択された比喩表現とは、無限大に恣意的なのである。何故ならば、無限大の選択可能性があったにも関わらず、その語が選ばれたわけだから。人間は全ての可能性を総当たりで表現しているのではなく、表現したい表現を好き勝手に表現しているのだから、表現って極めて恣意的なのだ。

この恣意性を、僕は、いつだったか寝床にて、「無限大の執着」「無限大の愛着」と呼んだ。まあ、呼び方などどうだっていいのだが。しかし、こうした呼び方だって、恣意的だ。別に、「うんこ」とか「うんこうんこ」とか呼び習わしたっていいわけだから。

8)「行き過ぎた平等思想」は、比喩表現を通過して、ある極めて特殊な執着へとたどり着く。それをひとまず愛と呼んだっていいかもしれない。

なんてね。

ってことを書きたかったので書いた。

まあ、わかる人にはわかるであろう。