くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

妄想とか愛とかについて。あと、主人公にまつわる興味深い分析

・妄想とは何かっていうと、あれです。生き方です。老荘思想儒教などにたびたび登場する「道」って言葉。これは、現代語に翻訳すると「妄想」になります。

以下、試みに、蜂屋邦夫さん翻訳の岩波文庫版『老子』を元に、道、を妄想に置き換えて読み替えてみよう。以下、章番号は、老子道徳経のそれ。

第一章

「これが妄想ですと示せるような妄想は、恒常の妄想ではない。これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない。」

 

第四章

「妄想は空っぽの容器のようであるが、それが活動しときには、一杯になってしまうことはないのだ。淵のように深いことよ、万物の大本のように見える。」

 

第九章

「仕事をなし遂げたら身を退ける、それが天の妄想というものだ。」

これは、やや、意味不明だ。

 

第十四章

「いにしえからの妄想をしっかり持って現今のもろもろの事柄を治める。そのようにして、いにしえの始まりを知ることができる。これを妄想の法則というのだ。」

 

第十八章

「それゆえ、大いなる妄想が廃れだしてから、それから仁義が説かれるようになった。」

 

面倒なので、この辺でやめる。飽きた。何はともあれ、だいたい、合っていそうだ。とはいえ、道にしろ、妄想にしろ、曖昧で抽象的な表現な訳で、置き換え可能なのは当然っちゃ当然だ。抽象度の高い表現を他の表現に置き換えることにそれほど意味はないのかもしれない。となると、日本語への翻訳もナンセンスだろう。

 

・愛について。

俺は、あんま人を愛さない。だいたいいつも、呪っている。

何はさておき、愛、ってものを考える際は、能動的に考えるより、受動的に捉え直す方が楽だ。

つまり、「俺は人を愛しているか?」と自問するより、「俺は人から愛されているか?」と自問した方が、実は、近道だろう。と思われる。

もちろん、この世の大半の人間はクズだ。クズは他者を愛するなんてできない。せいぜい、毎朝うんこするたびに、「ああ、スッキリしたああ。うんこっていいなあ」って感嘆するのがクズにできる最大限に愛情深い感情である。

クズはうんこしか愛せないのだ。

しかし、この世の中には、普遍的な愛だなんて、クソみたいな話がある。

具体的に名前を述べれば、イエス、ゴータマ、ガンディー、マザーテレサ、エディソン、忌野清志郎、である。もっと他にもいるはずだが、いちいち列挙しない。彼らは、普遍的な愛情(あるいは、慈悲、まあ、他の言葉で言い換えてもいい)を発露した人々で、すごい。

普遍的ってどーいう意味だろうか?

いつでも、どこでも、ってことだとされている。本当は、もっと深い意味なのだろうが、ここでは面倒なので掘り下げない。

普遍的とは、対象を、時間空間で制限しないってことだ。いつでも、どこでも、ってそういうこと。

つまり、普遍的人類愛とは、いつの時代の人に対しても、どこの地域の人に対しても、愛してますってことだったりする。ちょっと、文章が変だが、意味は汲みとれるだろう?

となると、どうなるか。冒頭の、愛は、能動的に考えるより、受動的に考える方が楽だって、話に繋がる。能動的に考えるってのは、「俺ってほんとうのところ、他者を愛してんのかなあ?」って自問すること。まあ、その答えは微妙である。

が、一方で、

「俺ってどっかのだれかから愛されてんのかなあ」と自問すると、「ああ、愛されてるわ」って答えが割合はっきり返ってくるのだ。

「イエスは俺のことを愛していたし、ブッダも俺のこと慈しんでくれていたし、ガンディーや、テレサやエディソンや忌野清志郎だって、俺のこと愛しているんじゃねえかな」と思うわけです。理由は、彼らが普遍的対象に向かって、思考できる人間だったから。まあ、推測ですが。

わかりにくい話だろうか。

それとも、案外伝わるのだろうか。俺がここで述べようとしていることって。

実際のところどうなのよ。

おそらく、彼らみたいに、普遍的に人々を愛せた人間は、たくさんたくさんこれまでの人類史上にいただろう。きっと、五千人とか一万人とかじゃ間に合わないくらい、たくさんたくさん。っつーことはどういうことかっというと、僕たちは、少なく見積もって一万人の人々から愛されているのである。そもそも、普遍的な愛ってのは、未来の人間から過去の人間を愛するってケースも含めるわけで、これから先の人類史まで入れちまうと、おそらく、無限の愛情が俺たち一人一人に注がれているってことになる。

馬鹿言うな、と思うかもしれないが、普遍、ってそう言う意味だ。

実の両親から愛されなくたっていいじゃない。

学校の先生から愛されなくたっていいじゃない。

その他身近な人間から愛されなくたっていいじゃんか。

少なくとも、イエスブッダ、ガンディー、テレサ(敬称略)は、あなたのことを愛している気がするのだが。

と、ここで話は次なるステップへ向かう。

で、このように様々な人々から愛されているって実感できるようになってから、宗教を選ぶべきだろうなあ、と思うのです。俺は。

何も、特定の一部の人からしか、私は愛されない、って思い込んだ状態で、特定の一部の人々の元へ駆け込むのは、ちょっと冷静じゃないなあ、と思うんです。

例えば、法然さんしか、俺のことわかってくれない、法然さんしか縋る相手がいないってな具合に、法然さんの元へ走るより、法然さん以外にも、俺のことわかってくれるやつは、例えば、龍樹とか、テレサとか、色々おるわけやけど、法然さんの人柄が何と無く好きやから、法然さんとこいこかいな、の方が、なんとなくですが、ええんじゃないかなあ、と思うのです。何と無くですが。

この新興宗教に入らなくちゃ、救われない、って発想は、疲れるだろう。

 

・きょうされん批判?

自分のことを「主人公」だと思い込んでいる障がい者は、つまらんし、気持ち悪いものである。友達になりたあない。

じゃあ、自分のことどう思えばええやろうか、といえば、一例に過ぎないけれど、「天上天下唯我独尊」でええんじゃなかろうか。

障がい者、に限らんやろうけれど、一般ピーポ〜どもが日常的に用いる「主人公」って言葉からは、「菓子をぼりぼりくって」「一日中、ごろごろ寝転がって」「びーびー、泣いている」と言うイメージばかり沸く。

いや、ごろごろ寝るのはいいし、泣くのもいいんやけど、なんというかなあ、

「主人公」って言葉、みんな、変な風に解釈しているのである。

「主人公」=そういう役割、とか、永遠性、とかと解釈している。

誠実な物語において、もっとも変貌を遂げる人こそ、「主人公」だったりする。端役ってのは、いわば、固定化されたキャラクターであり、物語の最初から最後まで、まったく同一の役割を演じ続けるものなのだ。もちろん、例外はあるし、そもそも、例外とは、創造可能性の別言でさえある。(どう言う意味かってーと、例外は作れる。ゆえに、例外のないルールだったり、体系化は不可能であろうって話だが。)何はさておき、主人公とは川の流れように変わってしまうもの。

しかし、きょうされんの掲げる「障がい者=主人公」とは、俺の印象論ですが、ただの保守反動なんです。クソが。毎日毎日同じ生活がしたいです〜ってのを、障がい者=主人公ってくそみたいなスローガンで語っている。

 

・僕は、このブログ内において、一切の文責を負わない。

ゆえに、読み手も、僕の文章を真に受けないでほしい。

僕は、ろくすっぽ調べもせず、適当に思いついたことをあやふやな記憶で書いている。