くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

題目よっつ。語句解釈、個人新聞、無心、恥ずかしさ

我ながら、俺のブログは面白い。

まあ、そんな読み返さんのやけど。

いつもいつも同じ姿勢で同じ場所で文章書いてもつまらんやろう、と、今回は、リビングにて、犬にマーキングされながら書いている。BGMにlou reedを流している。

 

・昨日道=妄想説の続き。

ぶっちゃけ、道=妄想にこだわる必要はあるまい。なにかしら、大切そうなものを当てはめてみたら、だいたい意味が通りそうだ。例えば、

 

老子(蜂屋邦夫さんの岩波文庫翻訳に基づく)

第一章

これが息子ですと示せるような息子は、恒常の息子ではない。これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない。

 

まあ、第一章でやるのはずるい。こんな文章じゃ、だいたい、なんでもそれっぽくなるだろう。

 

これが麻生太郎ですと示せるような麻生太郎は、恒常の麻生太郎ではない。

 

とか。

 

これが爪楊枝ですと示せるような爪楊枝は、恒常の爪楊枝ではない。

 

とか。

 

まあ、そりゃそうだって話だ。まあ、ただ、その一方で、字義解釈なんてこんなもんだって気も今回の当てはめで掴めるのではなかろうか。

 

・新聞を作りたい、という思いがある。日刊紙。このブログもそのつもりの延長線上にある。なんだ、そのつもりの延長線上って。

えー、俺は思うのですよ。みんなが朝日新聞とってるから朝日新聞を購読しよう、とか、クソじゃないか、と。

俺は、近所の山田さんが勝手に発刊している個人新聞を購読するぜ、とか、そういう選択肢がメジャーになればなあ、と思うのです。

第一に楽しそうだ。

第二に、配達が楽そうだ。だって、近所だもん。

こういうのを地産地消という。

新聞の地産地消

いいじゃないですか。いいよね。

そもそも、新聞記者の書く文章って、三次資料、四次資料な訳ですよ。当事者が書く文章じゃない。当事者にインタビューをとる場合もあるけれど、それも極めて例外的。会社そのものが社説を書くわけじゃない。たまたまお鉢が回って来た記者が書いているだけ。それをなぜ、社説などと名乗る。いっそ、新聞社の寿命なんて、新聞記者の寿命と同期させてしまえばいい。

今、書いている新聞記者が死んじまったら、その新聞は廃刊でいいじゃないか。

陸羯南もきっとそうやったろう。いや、知らんけど。

個人の人生と心中しちまう会社でいいんじゃないか。どうせ、創業者は死ぬのだ。

なんか話がずれているが、二次資料に当たって書かれるのが大手新聞の記事なら、そんなの、個人でできるよ、と思うのです。まあ、俺は、世間的な出来事に興味がないため、記事の傾向は真似られないけれど。真似しないけれど。

気分は、正岡子規、とか、おもろいんじゃないかなあ、と思う。

 

・無心に褒められる経験ってありがたいなあ、とこの頃思う。

ふっと、振り返って見たのだ。俺の人生を後押ししてくれた経験ってなんだろう?と。

すると、それはおそらく「他者から利害損得一切抜きで、「おまえすごいよ」と言われた経験」な気がして来た。実際、そうした経験は思い返すたびに、自分自身が成長していく実感があるし、そもそも思い返さないでも、そうした経験がかつて、そして、現在も、あるこで、俺が俺らしく存在している気がしてならない。うーむ、回りくどい文章ですが、なんとなく意味はわかるだろう。

無心で=利害損得抜きでってのが重要なのだろう。親や自称教師たちは、腹に一物もって人を褒めるからなあ。そういうのを下心という。

で、そういう下心(別名、教育的配慮などともいう)のもと他者を褒めようとすると、どうなるか?褒めることがゲームと化すのだ。

ん?どういう意味やねんって話だが、

褒めることがゲームになる、とは、つまり、よりよく褒めることがここでの私の役割、と任じることである。

役割を辞任するとどうなるか、端的に言って、自由じゃなくなる。また、保守的になる。現状維持に凝り固まる。

そもそも、社会的役割って、いま現にある社会を維持するための役割って意味だろう。が、現にある社会は、果たしてそんなに良いものだろうか?犯罪は絶えていない。

今の時代が一番いいよ。戦国時代とか、最悪だよ。けど、今の時代だって、まだまだ地獄だ。

なんだか、話がずれている。

何はともあれ、無心で他者から感心されるっていいことだ。

無心で他者から関心を寄せられるってのもいいもんだ。

ここでいう無心ってのはなかなか難しい。

が、無心=知能ゼロってことではないだろう、とは思う。知能がありながら、無心な状態がよろしいのだろう。なんとなくだが、理性と知能って別物な気がする。で、理性は打算に傾くが、知能はただ純粋に知能なのではないか。言葉の上の区別だが。

他者を無心に感心するってどういうことなんだろう。俺自身そうありたい。が、それはどういうことなのだろう。

もしかしたら、「呆れる」「呆然とする」「びっくりする」って感情が、ヒントになるかもしれない。手がかりになるかもしれない。

「呆れられること」=馬鹿にされること、と勘違いしている人もいるけれど、本当のところどうなのよ?

呆れられるって結構気持ちよくって、まあ、いいもんだ。

 

・恥ずかしいという感情。

恥ずかしいという感情は、その実、リラックスっていう肉体状態と結びつき売る。

恥ずかしくて恥ずかしくて体が硬くなるってこともあるんだけれど、恥ずかしくて恥ずかしてく、体がふにゃけてしまう、なんてこともあるのだ。

このことは、いずれ語ろう。

 

今回のまとめ

・語句解釈適当?

・個人新聞の可能性。

・無心に感心されるとうれしい。

・恥ずかしいとリラックス。