くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

感情論になった。〜感情の対象の同一性につて、と、感情の経済効果について〜

気がつけば、クリスマスが過ぎていた。まあ、どうでもよいのだが。

何はさておき、俺のブログは面白い。何かしらか、思いつくことを書いていく。

 

・感情の対象の同一性について。

これには、最近気がついた。俺は、同一の対象に向かって、怒ったり、喜んだり、楽しんだり悲しんだりしているようである。そして、このような、複数の感情が同一の対象へ向かうってことは、人間の性質として一般的であろう。

具体的に例示すれば、わかるだろう。親は我が子に対して、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、まあ色々するわけだ。我が子の方は、常に、我が子としてのアイデンティティを確立しているのだが、親は、その不変の我が子に向かって、感情をコロコロ動かす。

別に、良い悪い、じゃなく、面白い性質だなあ、と思う。

そもそも、俺たちは、常に、同一の対象に向かってしか感情を発露していないのではないかしら?なんて、思いも生まれる。それを、理想、とか、イデアとか呼び習わしても良い。イデア、っていうと、理性的にしか近づけない高尚なしろものってイメージだけれど、十分に感情が豊かなれば、感情表現によってさえイデアには接近できる。

作家や音楽家、そのた表現者がそうだろう。彼らが表現するものって何か?っていえば、所詮感情である。小説家は、悲しい文章のあとに喜びの文章を書くことで、ハッピーエンドってことにする。音楽家だってそうだろう。孤独感、寂しさを音によって表現したあと、喜びだったり、嬉しさだったりを表現することで、ラブソングを仕立て上げる。仕立て上げるって表現はどうかしらん?と思いますが。

じゃあ、そこで、彼らの表現に乗せられた感情って、何を志向してんの?って疑問。ちょっと、文章がこんがらがったけど、難しい話じゃない。どんな感情にだって、その感情が向けられる対象があるだろう、という仮定だ。芸術作品は感情を表現する。じゃあ、そこで表現された感情は何に向かっての感情なの?宗教画なら、神だったり、救済思想だったりに対してだろうか。

まあ、このことは後々。

 

・感情の経済について。

俺は、この頃、朝市にて野菜を購入している。で、朝市で野菜を買っていて、ふっと思ったのである。(俺が)こんな野菜買っちまって、朝市やっている人喜ぶだろうなあ、って。三百円分も購入したのである。

で、ここで、俺はスーパーと朝市を感情面で比較してみたい。

俺が、スーパーで野菜を三百円分購入した場合。その行為によって誰がどのくらい喜ぶだろうか?

スーパーの従業員は喜ぶだろうか?

レジ打ちのおばさんは喜ぶだろうか?

スーパーの店長は喜ぶだろうか?

その全国展開のスーパーの経営陣は喜ぶだろうか?

そのスーパーの株主たちは喜ぶだろうか?

その野菜の生産者が喜ぶだろうか?

その野菜を生産者からスーパーまで運送する人たちが喜ぶだろうか?

まあ、おそらくなのだが、俺自身を含めた、その野菜を食う連中以外、あんまり、喜ばないのではないか?

で、一方、

朝市。

あくまで、俺の勝手な想像なのだが、

先週の売り上げより、今週の売り上げが三百円上がっていた、それだけでも、朝市を運営している人たちの張り合いというか、手応えになるのではないだろうか。

例えば、先週は、野菜が五つ売れ残ったが、

今週は、二つ売れ残っただけだったら。

少なくとも、俺が朝市を運営していたら、ちょっと嬉しい。

ブログだって、毎日誰もアクセスしないより、二、三人アクセスしてくれたら、それだけで嬉しいものである。朝市だって、似たようなものなんじゃないかなあ、と思うのだ。

まあ、ちょっと恣意的な比較ではあった。

ただ、俺は、俺がいくらスーパーで買い物しても、スーパーで働く人たちをあまり喜ばせられないような気がして、滅入るのだ。スーパーで商品陳列している人たちにとっては、却って仕事が増えた、疲れる、くらいの感想しか産まないのではないか。

レジ打ちの人にとっても、仕事が増えた、いやだ、くらいの感情しか産まないのではないか。

で、そういうのって変じゃないか。

そもそもこの現代社会の抱える問題の一つは「多くの人たちが、働きたくない、と思っているのに、働かなきゃならない、と思い込んでいること」なのではないか。なぜ、この事実は、高校の現代社会の教科書では取り上げないのだ?なぜ、新聞やTVで取り上げられないのだ?不可解だ。

現代社会という科目は、現代社会について扱う科目だ。だとしたら、「新興宗教

について、「詐欺の騙しのテクニックについて」「仕事をしたくないという多くの人の本音について」「差別について」などなど、取り上げたいトピックは山のようにある。クソみたいなサミットがどうだかこうだか、京都議定書がどうだかこうだか、とか本筋ではないのだ。ラサール条約とか、どうでもいいのだ。だって、実際問題、ラサール条約違反で罰せられるケースと、新興宗教にハマって散財するケースと、どちらが一般的だろうか?そもそも、ラサール条約ってなんだってっけ?って俺なのだが。たしか、動物保護のなんとかだっけ?

何はともあれ、スーパーで買い物するより、朝市で買い物した方が、売り手を喜ばせられそうで、いいなあ、と思う。それだけの話。けど、それだけではないだろう話。

買い物をする際、金銭の交換、金銭の流動性の他に、感情の交換、感情の流動性も考え合わせてもいいんじゃないかな。