くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

昨日の立禅、消費行動も仕事の一部(かも)、人工知能=アニミズム、人形とおしゃべり。

昨日のこと

立禅は、予定通り、四時間完遂。プラセーボ効果もあるのだろうが、最後の一時間立禅を完了後、体が軽くなった気がした。心身ともに変化を感じているのだが、それら変化を一つ一つ言語化するのも、なんとなく不要かなあ、と思っている。どうせ、すぐに、先へ進むのだから。現時点の僕の変化を記録しておくことは、誰かの役にたつかもしれない。けど、その誰かだって、ただなんとなく練習を楽しんでいけば、その人独自の変化を遂げるだろう。そして、それで十分じゃないかな、というのが僕の考えです。

四時間やってみて、四時間という時間量に困難を感じなくなったのは嬉しい。このままいけば、一日六時間くらい平気だろうし、一日かけていいなら八時間も無理はなさそうだ。

変化は記録しておかない、といったものの、二、三書いておきたくなった。

1)下半身に力強さを感じていること。力強さ、というか、樹木のぶっとい根っこなイメージ。まあ、イメージ。2)一方、上半身、特に背中がふんわりと身軽くなった印象。プラス、右腕、背中、左腕に、一体感(?)連動感(?)を感じる。これまでも、肩は凝らない質だったのだが、以前に増して凝らなくなった。3)これは、四時間立禅以前から実感しつつあることなのだけれど、日中ほとんど疲れないこと。眠くなること、はあるんだけれど、疲れ果てる眠たさ、というより、リラックスしてコテンとなる、眠気。4)3)と同様、四時間立禅以前から感じていることだが、また内容もやや重なるけれど、カロリーを食事量をあまり必要としなくなった。

まあ、その他諸々、変化を実感しているし、意識に上っていない変化もあるだろう。意識に上っていない変化の方が重要かもしれない。わかんないけど。

一日三時間くらいなら、余裕だなあ、というのが現在の心境。四時間。六時間も。ちょくちょく試してみる予定。

 

ここ二日くらい考えていること。あるいは、思いついたこと。

・「消費も仕事だ」って発想を得る。この一文じゃ、いまいち意味がわからないし、誤解を招くかもしれない。

まず、大前提から話を進める。それは、仕事とは何か、ということ。仕事とは何か、と考えると、それは、誰かの役にたつこと、誰かの役にたつ行為、だろう。逆に、そうじゃなきゃ、なんのための仕事なのか?という話になる。

仕事をすることが社会的によいこと、とされているのは、みんながそれぞれ、誰かの役に立っていけば、一人一人が完全に自立して隔絶して生活するより、豊かに安定して楽しく嬉しく生きれるだろう、という予測というか事実があるからだろう。経験知というか。

で、こうした、

仕事=誰かの役にたつこと、または、誰かの役にたつ行為。

だとすると、会社に雇われること、や、お金を儲けること、や、家事育児、のみを仕事と捉えるのは視野が狭いだろう。

いっそ、お店で買い物をするという完全な消費行動や、まあ、その他、些細な日常行為などのも仕事と捉え直すことができる。

まあ、そういうことを考えましたよ、考えていますよ、という話。

 

おとといあたりから、忌野清志郎を聞いているのだが、ライブ録音ということもあり、忌野清志郎さんのMCも聞いている。で、ふっと思うのは、知り合いのおじさんのこと。そのおじさんの喋り方や口癖が忌野清志郎そっくりなのである。忌野清志郎の喋りを実際に聞いてみてびっくりした。ファンだったんだろうなあ、とそのおじさんのことを思い返している(かれこれ三ヶ月くらい会っていない)。

忌野清志郎のような僕より二回り三回り先行世代のスターの残したものに触れることは、そのスターにもろに影響を受けた世代の方達を理解する手がかりになるのもなあ、と思っている。まあ、CDを聞いたくらいじゃ、忌野清志郎さんのことは一面的にしかわからないだろうけれど、

少なくとも、僕の知り合いのおじさんが、忌野清志郎さんのフォロワーだったという、(知り合いのおじさんー忌野清志郎)といった縁起関係は俯瞰できる。やや、淡白なものん見方かもしれないが、ある年代の人たちに対して、忌野清志郎からの影響二割、矢沢永吉からの影響3割、サザンからの影響5割といったような分析というか、大雑把な第一印象把握も可能なのだろう。まあ、それをやって面白いかは、ちと、微妙。

話はちょっとずれるが、幼少期大人から言われたことの多くが、太宰や漱石の小説中のフレーズと重なっているとわかりだしたのは、ついこの頃のことだ。

やや意地悪な言い方になるかもしれないが、大人の言動に流されないために、影響力の強い音楽や文学に触れるのも、子供たちにとっては一つの戦略かもなあ、とここしばらく考えている。

偉そーに講釈たれているおばさんが、実は、漱石の受け売りしか言っていなかったとわかれば、おばさんの偉そーさに惑わされることはないだろう。

教養が人を自由にする、というのは、(あくまで一つの解釈だが)、教養を身につけることが=自学自習能力を高めること=先生や先輩に依存しなくても学習できる=先生や先輩のしがらみから自由になれる、って意味なのだろう、と思う。自学自習能力を高めるってことは、いわば試験を受ける必要がなくなるということでもあるだろう。まあ、そもそも端っからそんな必要はないのだろうけれど。

実際問題、小学校や中学校から一切の試験をなくしたところで、大半の子供達は、読み書き算術をある程度マスターするだろうし。

 

マーヴィン・ミンスキーの『心の社会』を読んでいる。で、ふっと思ったこと、「知能は、知能でないものからどのように現れてくるのだろうか」という問いから、現代の人工知能が発達してきたのなら、人工知能研究と、子供達の人形遊びだったり、あるいは、原始的なアニミズムって通じるなあ、と感想。

僕自身、人形遊びは好きなのであるが、(人形遊びとは、対戦形式でない、あるいは、対戦相手のいないチェスや将棋のようなものだ。また、過去の思い出に浸ったり、未来について思い巡らせることも、頭の中でチェス盤を操作することに似ている。)言ってしまえば、一般的に命がない、生き物ではない、少なくとも、人間的な意識がないとみられている対象に、「いや、僕の友達なんだ」「だから、一緒に遊ぶんだ」「一緒にいると楽しいんだ」って案に主張するのが、人形遊び。あるいは、アニミズム信仰。でもって、人工知能においては、人間の知能がどのように生まれるかを、知能でないものからどのように知能が現れてくるかを、あれやこれやして研究するわけなんだから、まあ、一種の偶像崇拝

説明に飛躍はあるが、まあ、なんとなく言いたいことはわかるんじゃないかな、と。

人工知能っておもろいなあ。

 

気が向いたらあと一時間立禅をやろう。