くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

太宰、冷え性、食生活、大河ドラマが怖い

曜日感覚が曖昧になる。今日が日曜日なのか月曜日なのか曖昧に。

 

昨夜は太宰治の「親友交歓」を読み返す。こんな淡々とやなことを面白おかしくかけるとは、と感心する。

太宰については、前々から言いたいことがあった。太宰にではなく、太宰を受容する世間一般に対して。まあ、大した申し立てではないのだが。

太宰=暗い、太宰を読むと自殺したくなる、というのは風評被害だよなあ、と思う。

だいたい、太宰は、その初期作品集の段階から、作中にて、俺は文豪だ。百年後も俺の文章は残るんだぜ。的な発言を繰り返しているのである。(なんていう作品だったかは忘れたが。)そんな不敵な人間が暗いわけなかろう。ちょっと大げさに書けば、太宰は、これでいいのだ、と心中していったのではなかろうか。いや、これでいいわけではないのだろうけれど、やはり、心中以外の選択肢があればなあ、と後世の俺は思うのだが、まあ、あれでもいいのだろう、とも思う。

本当に、読んでいて、死にたくなる本。聞いていて死にたくなる音楽。見ていて死にたくなるTVってなんだろう?

それは、「真心のこもっていない小説だったり、音楽だったり、TVだったり、その他諸々だったり」するのではないかなあ、と思う。

本心では、んな事思っていないだろう、という綺麗事を並べ立てる人々を眺めていると、俺は死にたくなる。政治家、とか。POPミュージシャンとか。社会活動かとか。(全てが全てってわけじゃないけれど)。

まあ、死にはしないけれど。

ともかく、太宰の生き様は、心中したっていいし、心中したって文豪は文豪だって、事実を俺たちに伝えてくれる。

 

俺は冷え性なのだが、ここしばらく、その冷え性を克服しようと試みている。

思い返せば、俺は指先が冷えて、黄色いバナナみたいになるたびに、いそいそと、暖房器具の前に手をかざしていたのである。この習慣が、手足の冷えに対する自然治癒力を衰えさせていたのではないかしら、とふっと思ったのだ。

というわけで、ここ数日、指先が冷えても、「ああ、冷えているなあ」とただ思うだけにしている。特別に、指先を擦り合わせたり、暖房器具のまえに手をかざしたりはしない。勝手に、そのうち回復するだろうと、放置しているのだ。効果があるかは、まだわからない。が、暖房器具などを用いずとも、時間さえかければ、自然に血液循環を回復するようだ。それと、自然に血液循環を回復するさい指先がぴりぴりして気持ちいい。気持ちいことに悪いことはないだろう。

 

食生活をそろそろ、もう一段階改良しようかしら、と画策中。

具体的には、一日二食→一日一食へ。

食事をとるという行為が面倒臭いってのもある。食後頭がぼんやりするのも面倒臭い。頭と胃が重たい状態だと、やれることに限りが出てくるのだ。まあ、それはそれで対応可能なのだが、まあ、より自由になりたいなあ、と。そもそも、一日一食で済まして、健康的に暮らしている人たちもたくさんいるわけですし。まあ、彼らは概ね痩せ型ですが、まあ、太りたくなったら食生活を元に戻せばいいだけだ。

食事への煩悩がなくなれば、この世の中の大半の娯楽は意味がなくなる。料理屋がまず、不要。テレビのグルメ番組も、不要。映画やドラマなどでの印象シーンも、特別な意図がない限り不要。旅行などでも、手ぶらで旅立て身軽である。

食事量が減ればどうなるか、というと、運動が少なくなる。運動って言い方はビミョだなあ、要は、あまったカロリーを燃焼させるための過度の活動が不要になる。ジョギングとか。ジムでの筋トレとか。ジョギングも筋トレも俺自身経験はあり、その楽しさも知っているのだが、まあ、他にもっともっともっと楽しいことも知っている。というか、ジョギングや筋トレって思い返して見ても、そんな楽しくはないのだ。すぐお腹減るし。

俺の中で、立禅をすると空腹じゃなくなる、理屈はよくわからない法則が成り立っている。ただの思い込みの可能性も高い。が、これは利用できる。

しばらく、試験的に、食事は、お昼一食のみ。夕方これまで夕飯を食していた時間帯に立禅を試みる、という生活パタンを実践してみようと思う。お腹が減ったら減った時、適当におやつを食べたり、果物食べたりすればいいだろう。厳密な一日一色ではないのだが、一月に一度くらい生活を一新したいのだ。

 

大河ドラマが怖い。

うーむ。あれは、怖い。いつも役者たちが喉の奥を絞る特殊な発声法で怒鳴り合っている。子供の頃体験した、学級内の権力闘争を思い起こさせる、発声法である。

脚本が悪いのかもしれない。言葉のやり取りによって、観客(視聴者)を楽しませられない程度の脚本ゆえに、役者たちが変な方向へ張り切るのかもしれない。つまり、感情的に演じることによってしか、観客の情動を刺激できない、そういう脚本なのかもしれない。

感情的に演ずることはいいことなんだけれど、なんというか、もっと、睦じい感情だってあるわけですよ。ピロートークとか。

これは、俺の好みの問題なんでしょうが、登場人物がみんな相思相愛、ひたすらに、隠語猥談を繰り広げる大河ドラマを見たいものです。きっと、楽しいから。ウキウキするだろう。

そもそも、リアリティを感じないのである。維新の立役者たちが、あんな小人物っぽく、怒鳴り合ったりするものだろうか。あんなの、理屈ではなく、より効果的に怒鳴ったほうが勝つゲームじゃないか。現実はそうなのかもしれないけれど、それは現実のレベルが低いからじゃないだろうか。

いつだったか、デヴィ夫人を始め、いじめっこ叩き、にTVがいそいそしていたが、実は、TVドラマっていじめのロールプレイでしかないんじゃないかしら。少なくとも、そういうドラマが増えてきている。「半沢直樹」とか。そういうTVドラマを日々製作することと、「いじめあかんやろう」と視聴者に訴えることは、多分、両立しない。

いや、TVドラマを始め、ありとあらゆる表現行為は現実的問題から遊離して構わない。けど、TVドラマって現実というか、視聴者に媚びを売るように作られているでしょう?みんないじめをみたいから、TVドラマを見るわけでしょう?だとしたら、TVドラマって現実から遊離していないのですよ。表現したいから表現しているが芸術だとすれば、TVドラマは芸術じゃない。視聴率や金のために作られた表現に表現の自由っているんかなあ、と思う。

うーん、七割方やっかみだ。TVドラマに取って代わる表現が実現すればいいだけだろう。

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TVドラマがいじめを演じることで、人々の欲求不満が解消され、却って社会が平和になるなんてこともあるのだろうか?だとしたら、TVドラマって十分に有用なのかなあ。

知らん。