くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

日記

一月一日である。

 

新年初日ということは関係なく、本日は、朝方より、立禅三昧にしようと計画していたのだった。当初の予定は六時間。二時間経過、やっぱり、八時間にしよう、と計画変更。そして、四時間終了して今、やっぱり、今日は、四時間で終わりにしよう、と決めたところ。

八時間、というのにはこだわりがある。こだわりっていうのかな、まあ、例によって光岡英稔さんが、ハワイ時代一日二時間〜八時間、平均する一日四時間の立禅に取り組まれていた、と甲野さんとの対談集で書かれていて、初読時、すごいなあ、と思ったのだった。で、それを一つの指針としている。光岡さんがどのくらいの武術家なのか、俺にはよくわからない。けれど、目標というか、一つの指標にさせていただこうと、勝手に決めている。一生涯の目標、というわけではなく、二十八〜三十才くらいまで。ヴァーチャルの伴走者、といったところ。

何はともあれ、今日はこれで終わり。

肩の力が抜けた。

 

夕暮れから、一日を振り返ってみると、これまでの取り組みに一区切りをつけた一日だった。取り組みに区切りを設けると、肩の力がストンと抜ける。心地の良い虚脱感。虚脱感と同時に、自由を感じる。これまでのこだわりを一切、脇に置い多感覚。これから、何をしてもいいんだ。何を新たに初めてもいいのだ、という感覚が腑に落ちている。

 

今日一日で、八時間の立禅をするんだ、少なくとも六時間取り組むんだ、とさっきまで、自分に自分で言い聞かせていた。休憩がてら昼寝をしていたら、その自問自答形式の叱咤激励が阿呆らしくなって、今日はもう、これでいいや、と思った。これでいいのだろう。耳をすませると、りりりりりりりり、という空耳が聞こえる。今日の残りは、この、りりりりりりりりりり、を聴きながら、読みたい本を読むことにする。

 

腹が減っている。朝方、おやつを食べ、お昼がっつり食べた。夕飯も朝同様、おやつで済ませようと思っているのだが、どうしようかなあ、とちょっと躊躇している。

朝、夕、おやつで済ませているのは、一日一食へ移行するため。食事回数を減らせば、頭も冴えるし、うんぬん、という利己的な計算ゆえの人生の選択なわけですが、けど、苦行っぽさを出したくはないんだよなあ。

食欲に流されたり、食事に人生の喜びを感じたくはない。俺は、好色な人間なので、好きな人と一緒にいるときが人生最大の嬉しいひととき。うまいもんをたらふく食いたい、という欲求とかいらん。

実は、朝夕のおやつタイムが、ちょっと楽しみだったりする。昼飯は、多少は栄養など考えてがっつり食っているのである。嗜好品とうより、完全に栄養食である。が、朝夕はそうじゃない。もろ、楽しみだけの食事である。あれ、全段落といっていることが矛盾してるわ。まあ、ええわ。矛盾というか、視点が違うののである。

どうせ朝方夕方多少腹減るだろうから、ちょいと一口つまむことにしよう。で、どうせなら、嗜好性を感じるものを、つまむことにしよう。そういう判断だった。

 

時折、思うこと。

「俺、何がしたいのかなあ」

この問いは、きっと、大切。なにせ、俺は、したいことしか、したくないのだ。

その一方で、時折、

「生きてくのいやだあ」「何がしたいのかわからん。死にたい」

などとも思うわけだが。

本気で死にたい、と思ったことは、多分ない。生きていくのが面倒臭い、とか、いろいろとやりきれない、とか、そういう思いなら、度々感じる。

俺、生きる価値、ないんじゃないか、と思ったことならある。

いつだったか、マハトマガンディーについて、ウィキペディアで調べていた時、そう感じた。ガンディーがどのように暗殺されたのか、その最後の様を読んでいて、「なんで、この人がころされなあかんのや」と思った次の瞬間、自分がどうでもいい毛ジラミのような存在に思えてしまい、もうこのまんま餓死したいと思ったような。いや、そこまでは思わなかったかなあ。

何はともあれ、俺はガンディーをライバル視したのだ。ライバル視したため、一瞬、死にたくなって、一瞬後、死にたくなったって気持ちが馬鹿らしくなった。

なんの話だったか忘れた。

何はともあれ、俺はもうすでに、十分なのだろう。

 

太宰治の文庫本が四冊届く。太宰治って評論もたくさん書いていたんだなあ、と意外に思う。

 

未来の計画をあれやこれや書くと、書いたそばから、本心じゃないようで、書いては消し書いては消しとなり、しまいに、

 

ってか何時に、文の途中で途切れてしまったりする。あるいは、単語だけ、ぶつ切りに、句読点で接着されたり。文章を書くこと、こそ、希望である、と言い張りたい。文章を書けば、なにもかもがよくなるのだ、と言い張りたい。言い張りたい、というか、言い張る。文章を書けば、どんどん、人は頭がよくなるし、優しくなるし、平等になるし、自由になるし、自由になる。繰り返した。自由になった上で、さらに自由になる気がするのだ。自由には二段階以上の段階がある気がするのだ。

理屈をあれやこれや、述べたくなる時もあれば、理屈抜きで、こうだったらこうなのだ、と書きたくなることもある。それが、今なのだ。なぜ今なのだ。知らない。

なんだか、いい気分。

俺は、今、昨日より優しい。

立禅のことがどうでもようなった。